そこに足を踏み入れるのは、思えばずいぶんと久しぶりだった。だから、余計にそう思ってしまったのだろう。部屋の惨状に、彼――恭也は面食らった。
 部屋のいたるところに、モノが散乱していた。壁には、色とりどりのメモが貼りつけられており、デスクには何かの数式を書きとめたとおぼしき手書きのノートや、データを表示させたラップトップがある。タコアシならぬ、タマネギの髭のような状態のコンセントも、雑然とした印象に一役買ってでていた。
 一目みておおよその用途が見当つくものから、一体全体、何の部品かわからないものまで。おもちゃ箱をひっくり返したような混沌が、そこにはあった。

 内心の焦りをぐっと呑みこむ。手もち無沙汰の状況に、なんとはなしに部屋を見渡した。実感はあまりないが、もともとのスペースだけで言えば、この部屋は広いのだろう。PCデスクに座った忍と壁によりかかった恭也の間は、かなり距離がひらいていた。それなのに、その広さを感じられないのは、やはりモノがありすぎるからなのだろう。

 忍はイスに座り、流れていくデータと格闘しているようだった。キーボードをリズミカルにたたく音は、小気味良い。声をかけようとし……止めた。集中しているときに、不用意に話しかけても碌なことにならない。物音をたてないよう注意しつつ、恭也は入口付近の壁に寄りかかった。



 ココは、単純に研究室などと呼ばれていた。ただ、実体としては実験室や工房といった表現が妥当だろう。ノエルの整備をする際に使用する機材が揃っている上に、忍はそのスタンスを研究者というよりも技術者に比重をおいていた。

 とにもかくにも、この部屋ほど“混沌”という表現が似合う場所はないだろう。当事者以外には整頓されている部屋だとは、到底思えない異相の部屋だった。内心、そろそろ掃除をさせようと決心し、恭也は目当ての人物を探す。

 デスクの横に丁度、人一人ぐらいならば、ゆうに横たわれるだけのスペースがあった。というのも、そこに文字通りヒトが寝ていたからだ。飾りけのないシンプルなブラウスと、ほどよく使いこまれたジーンズ。ノエルは、普段着に着替えさせられ、瞳を閉じていた。
 恭也が足を踏みいれたというのに、反応のひとつも返さない。出来ないのだとわかっていても、不安がよぎるのを止められなかった。

「結論からいうと……もう心配ないよ。だいじょーぶ」

 最後にしっかとENTERキーを弾き、椅子を向き直らせて、忍は告げた。その脈絡のなさに一瞬、らしくもなく呆けたが、すぐさま持ちなおし、真剣な眼差しでみつめかえした。
 
「ノエルの話、だな?」
「そうだけど…………あれっ? あたし、言わなかったっけ?」
「唐突に」

 へいぜいと変わらぬそっけない物言いに、ひけめを感じてしまうのは、あながち忍の気のせいでもあるまい。
 あははとつくりわらいで誤魔化そうとするものの、間の抜けた空気は容赦なくごまかしを一蹴する。端整な顔立ちをした恭也にジト目で見返されると、全面降伏するほかなかった。ちいさな声で、ごめんなさい。
 重かった空気が、こころなしか和らいだ。それは多分、漠然とした不安が収まったからだろう。どこかぬけてる彼女にちいさく心のなかで感謝する。

「……で、結局、ノエルに何が起こったんだ?」

 誘い水を向けた。

「んっー、とね。戦闘モードに移行したたノエルは、保存・蓄積されてる戦闘データにアクセスして、最適な行動をとろうとするの。でも今回に限ってなぜか、ノエルのブラックボックスから逆アクセスが発生して、過負荷がかかってシステムダウンしちゃった。結局は、それが原因、になるのかな」

 立板に水のごとく、忍の口から言葉が流れていく。メカニカルな素養に関しては、美由希よりマシだが、一般人には劣る。というレベルの恭也には、すこしばかり、忍の専門用語満載マニアックな会話はハードルが高すぎた。

「……すまん。噛み砕いて言ってくれ」
 
 左耳から右耳へとぬけでていった言葉を必死につなぎとめつつも、そう問いかえす。無知を恥と思わなかった。わからぬ事をわからぬままにしておくことこそ恥だろう。なにより、家族の一員ともいえるノエルのことだ。知っておきたいと考えるのが、当然だった。
 真剣な声に後押しされて、忍はしばし考え込む。物事を素人にもわかりやすく説明するのは、ずいぶんと難しい。話の前提となる情報の数が明らかに異なるのだから。

「……わかりやすくいうと。ノエルに残されてた記憶が、なぜだかしらないけど蘇って。その情報量が思いのほか膨大で、意識の大半を占めちゃって。その結果、ノエルは知恵熱でちゃった……って感じになるのかな」
「……その様子だと、本当に心配ないようだな」

 言葉の意味を理解するよりも、彼女の軽い口調によって、事態を把握することができた。溜まりつづけていたものすべてを、肺から盛大に吐きだし、穏かに笑った。ノエルが倒れてから今まで、否応なく張り詰めてしまっていた。ノエルについてのスペシャリストたる忍に太鼓判押され、ようやくつけた安堵の息は思いのほか心地よいものだった。

「でも、ね。根本的な原因は掴めてないんだ。だから当分、戦闘とか激しく動くのは禁止だから、恭也も気をつけててね。ほっとくとノエル、すぐ無理しちゃうから」
「……あぁ」

 声をひそめ真剣な顔をよせる忍に、頷きと簡素な言葉で同意をしめした。言われるまでもなく、無理をさせる気など毛頭なかった。鍛錬にも、たとえノエルが強行に付きあいたいと申し入れたとしても、つきあわせる気は更々なかった。もう目の前で倒れられる姿を見るのは……ゴメンだ。
 ただ、その場合、一番ネックとなるのは意外に頑固なノエルの性格そのものだというのは、如何なものだろう。そのときを想定しても、頭が痛かった。

「でも、忍のことだ。根本的な原因とやらについても、心当たりがあるんだろう?」
「うん……あるといえばあるんだけど、さ」

 歯切れが悪かった。

「多分、ノエルの基本人格になってるデータからの逆流、なんだろうけど……。正直、対処法が見当たらないんだ」
「見当たらない?」

 訝しげに、眉をひそめた。自動人形に関しての知識は、一族でも屈指の忍だ。ノエルのロケットパンチやバランサーの設計・改良を成功させた実績がある。いつぞやも、専門の技術者と称していた。そんな彼女をして、わからないとはどういうことなのだろうか。

「……うん」

 唇をかみしめ、うなづく様は、ほんとうに悔しそうにみえた。

「ノエルに、ううん。自動人形に使われてる技術のほとんどは、失われているの。箇所によっては、現代技術でも代用できるけれど。ノエルの意識とか記憶とか……ブラックボックスに関するところは手も足も出せないんだぁ」

 泣く寸前の表情をしているくせに、懸命に笑みをつくろうとする。それが恭也には心底、痛ましい。

「情けないよね……。専門家を自認してても、あたしにできることなんて、数えるほどしかない。ホント、情けないよ……」

 言うなり、俯いてしまった。忍が落ちこんでいるところを、恭也は滅多に目にしたことがなかった。忍は、わりと強い娘で。明るく、前向きで、恭也が感心するくらい光に満ちあふれている娘だった。俯いた忍の頭に、てのひらを乗せた。

「忍は精一杯やってる。俺が保障する」

 末妹なのはにするように、ゆっくりゆっくり髪の毛を撫でていく。まなじりから自然と涙がこぼれていく。哀しいわけじゃない。どうしようもなく温かくて。幸せな気持ちに浸ってしまったから。やさしさに溢れた体温に彼女のプライドが慰められていった。



 多分、時間にすれば、ほんのわずかのこと。それでも、恭也の体臭と体温に包まれていたなら、時を忘れてしまった。すごく、落ち着くことができた。目の端にかすかに残る、涙の残滓を拭いながら、笑顔をむける。後ろ向きな気持ちは、どこかへ飛んでいってしまった。

「ゴメンね。大変なときなのに、迷惑かけちゃって」
「気にするな。しのぶにかけられる迷惑なら、歓迎する」

 そっぽを向いた恭也の頬が、うっすらと染まっていた。それを認めて一瞬、チェシュ猫のような笑みを浮かべたが、思いなおし消した。ぬくもりを、テレ屋な恭也が折角くれたぬくもりを、台無しにするのは惜しかったから。

「話を戻すんだが……ほんとうに手立てはないのか?」
「うん。少なくとも、今のあたしじゃ……無理だよ」

 その物言いに引っかかった。忍は無理なら無理と断言する。そういう技術者気質をもっている。含みのある言い方をしたのならば、それ相応なりの理由があるはずだった。

「すくなくとも?」
「……そうだよ。自動人形の詳細な設計図とか工房……ううん。稼動する機体でもいい。とにかく、ノエルと比較できる対象があれば。なんとかできる自信は、あるの」

 自嘲まじりの嘆きから一転。静やかだが、張りのある声色だった。

「イレインじゃ……ダメなのか。修復しているのだろう?」
「イレインは特殊すぎるよ。自我と理性のところで躓いているのに、ノエルにフィードバックさせるなんて……とてもじゃないけど、無理」
「そう、か――」

 イレインがダメとなると、もう恭也にアイデアはない。忍に出逢うまで、一族の存在すら知らなかったのだ。彼らにすらレアものとして扱われる、稼動状態の自動人形の所在など、わかるはずもなかった。我が身の不甲斐なさに思わず、嘆息をもらした。

「無理をさせない。それぐらいしかできない、のか」
「さくらにも、心当たりないか頼んでみるけど……今までだって、見つかっていなかったんだしね。今すぐには無理、だと思う」

 残念だけど、気長に待つしかないよ。と言葉を結び、忍はラップトップに目線をうつした。図らずも喋っていたことが、相応の暇つぶしになったようだ。覚醒への兆候が、液晶画面に克明に表示されていた。

「ノエル……? ねぇ、わかる、ノエル」

 椅子を薙ぎ倒さんばかりに立ち上がった。ノエルへとかけより、声をかける。労わるその声色が、つい涙声になっていても、それを指摘する気にはなれなかった。第一、彼もまた、息を詰めて、ノエルの反応を窺っていたのだから。





 二人がみつめるなか、まつ毛がピクリと震えた。それからの反応は顕著だった。二枚貝によく似た、小さなまぶたがじょじょに、じょじょに開かれていく。半開きのそれから覗く瞳は、焦点こそあっていなかったものの、恭也や忍の顔かたちを映しだそうとしていた。

「……lieben Tochter?」
「ノエル?」

 ボゥとした瞳のまま、ノエルの唇はなにかの言葉を紡いでいった。忍は訝しげに彼女の名を呼んだ。日本語の発音とは、ことなる響き。おそらくどこか別の国の、もしくは過去に存在した言語なのだろう。あるいは、寝言のようにまったく意味のない言葉かもしれなかった。それよりも二人には、ノエルが目覚めたという事実のほうが重かった。

「忍、お嬢さま……? それに……恭也、さま」

 呼びかけに反応し、ぼやけていた意識が器にしっかりと宿っていく。まるで人形が人間に変じたと思えるほど、劇的な気配の変化だった。

「おはよう、ノエル。気分はどう?」
「……問題、ないかと」
「ノエルのその答えはアテになんないからね」

 バーミリオンの瞳に飛びこんできたのは、もっともなじみぶかい人たちの顔だった。状況が把握できず、困惑したまま主に答える。すると、忍は溜息まじり、苦笑まじりに答えを否定した。恭也も似たような表情をしていた。
 
 どうして、ココにいるのかわからない。どうして否定されるのか。わからなかった。

 それでも、少しばかり時間を要すれば、困惑を脱し、優秀な頭脳は状況を把握していく。なぜ自分がココにいるのか。どうして忍が心配そうに覗きこんでいるのか。体内の時計が進んでいるのは、どうしてなのか。コンコンと浮かび上がってくる疑問に、明確な答えを下せるくらいに明瞭になっていく。

「私は…………システムダウンした、のですね」

 上半身を起こしながら、ノエルは喋ろうとする。いつもは美麗に響く、その声にもどこか張りがなく、身体の動きにもキレがなかった。機敏に動こうと意識しても、身体のほうがついていかない。ベットから身を起こすのでさえ、多大な苦労を要した。

「まだ、完調じゃないよ。もうすこし身体を休ませなさい、ノエル」
「ですが……」

 ノエル地震、身体の不調に気付いていた。いつもより反応がイマイチ、にぶい。その事実を把握してもなお、主人の命に口をはさむのは使用人としてあるまじきことだ知っていてもなお、反論が飛びだした。
 そんなノエルに対して、忍はたった一言だけ口にする。ノエルの瞳と真正面から視線を合わせ、穏かな威厳をこめて。「ノエル―――」と。

「……わかりました」

 無言の圧力をともなった主人の命に、しぶしぶノエルは引き下がる。ゆっくりと寝台へその身を横たえた。そんな彼女を横目に、忍は充電の準備を整えていく。そのさまは、まるで乳飲み子の世話をする母親のようにも見えた。

「では。先に休ませて頂きます。忍お嬢さま」
「うん。もうすこし……おやすみ、ノエル」

 それだけ言うとノエルはまぶたを閉じ、すぐに充電モードへなった。動かないノエルの身体に、毛布をかけていく。そんな忍の表情は、微量の心配と多大な親愛と恩をかえせる喜びで彩色されていた。
 そんな二人のコミュニケーションを、恭也はそばで見守っていた。彼でも、口を挟みにくい雰囲気を察したためだった。忍とノエル。彼女らには、主とメイドという関係以外にも多くの顔がある。むやみやたらに侵犯するのは、たとえ家族の一員といえども、してはならないことなのだ、きっと。










 翌日、月村邸は一人の客人を迎えていた。いつぞやのように親類に分類するのさえ憚られる招かれざる客ではなく、忍が信頼する叔母――綺堂さくらの予期せぬ訪問だった。
 アポなしとはいえ、親しい友人の来訪を月村一家は笑顔で出迎えた。無骨な恭也でさえ、嬉しげに頬をゆるめ、歓迎していたのだからまちがいない。とりわけ二人の第1子――月村雫の歓迎っぷりはすさまじかった。
 鬼瓦すら微笑ませるような愛らしい笑顔を、タダで、これでもかといわんばかりに投げかける。母親にならうかのように、娘もまた、さくらを慕っているらしい。それには、爆撃機から落とされる爆弾にも等しい威力があった。小さな体をぎゅっと抱きしめなければ、居ても立ってもいられなくなるほどの破壊力が。


 若干の騒動はあったものの、一行は場所を無事、うつせた。くつろげるよう気安く、しかし礼を失わぬよう節度をもって応接間へと通し、いつも通りのもてなしをおこなう。ノエルの細やかな給仕と、愛らしい雫のもてなしだ。
 忍たちは対面に座り、さくらと視線を合わせられる場所へ雫を配置し、その脇を二人が囲む格好だった。
 出迎えた側はいつもとなんら変わらない。だというのに訪問者当人は平時と違い、どこか落ちつかない様子で居住まいを正していた。釣られて、ラフにかまえていた忍も、自然と背筋を伸ばしてしまう。
 きょうのさくら……なんか変。忍のほそい眉が、訝しげに歪んでいた。

「今日は二人に頼みたい事があって、きたの」
「珍しいね。さくらが頼みごとなんて」

 いつもの軽口にもさくらは乗ってこない。気まずさから、忍は愛娘へと視界を転じた。脇には、苺のケーキをほおばる雫がいる。くちびるの端にクリームをつけ、犬食いのようにフォークを握りしめている。黙ったままの恭也が、やさしくぬぐいとる。さすがに年の離れた妹が居るだけあって、手馴れた感がある仕草だった。
 家族の光景に自然、叔母と姪は二人して、ほのぼのしてしまった。

「……単刀直入に言うわ」

 コホンと息を改め、スーツの皺がのばされる。穏かな光を放っていた彼女の瞳から、とって代わるように真剣な光がやどりはじめる。姿勢を正したまま、忍の目線と真っ向からそれをぶつけた。

「綺堂の次期当主として、月村の現当主へ要請します。至急、ドイツへ飛んでください」

 その言葉は、おだやかな日常に杭を打ち込んだ。





「…………その口上。もしかして一族の遺産がらみ?」

 畏まった物言いとその内容にポカンとしたものの、ものの数秒で事態を察する。どんなに日常生活がぐうたらでも、夫の前では子供のように無邪気でも。本質が聡明だとみなされる所以は、このような機転の利き具合にあるのだろう。

「その通りよ。最近になって、ドイツ郊外の寒村付近に廃墟があることがわかったの。詳細は不明。ただし、もちこまれた資料から推測すると、一族に縁あるモノが住んでいた可能性も否定できない」
「……ふーん」

 まとめられた資料をさしだしながら、経緯を簡単に説明してゆく。忍がそっけない口調になってしまったのは、資料に目を通していたからだった。
 
 夜の一族は、自分たちの異端性をしっかりと理解していた。血液を媒介にして、超常現象をひきおこせる。言葉にしたら、たったそれだけの事実だったが、人を恐慌に陥れるには充分すぎた。科学が理に深く結びついている現代であっても、その異常性を知られるのは危険をともなう。
 だから、一族に関する噂および事実を、積極的に潰していける力を持った。それは社会的な地位であったり、莫大な財力であったり、膨大な情報網であったりする。地位をもつことによって、噂をやっかみにまで落とし、財力はあらゆる事態に影響を及ぼし、膨大な情報網で一族の記録その他を発見・回収し、真実の隠蔽に努めていった。

 この世界は誰にも平等に、やさしくない。それを祖先は知っていた。それでも生を全うしたいのならば、動かなければならなかった。そうしなければ、安心して生きていけなかった。ただ、それだけの話。

「でも、なんでまたあたし?」

 目を通しおえた資料を隣の恭也へと回し、さくらと向き合う。忍の疑問はその立場からすれば、当然の成り行きだった。
 名家になればなるほど、一族全体への責任は増す。周囲の人間を信用するのが難しい時代の名残だ。証拠の隠滅を計るライトスタッフをそろえて、彼らに仕事を命ずるのも、古き血をもち、いまなお力もつ名家の役割だった。
 血の濃さでは日本で三本の指に入る名家――綺堂の家系にもいるはずだ。そんな仕事がらみのライトスタッフたちが。経験の有無、仕事の正確さ、その他の要素も絡めて、正直、忍の出る幕などない……はずなのだが。

「自動人形について詳しい人間は、一族でも数えるほどしかいないわ。自衛手段をもっている人物となるとさらに限られる。しのぶ、貴方が適任なの」
「……へぇ。人形師の家、なのかもしれないってわけね」

 いっそ挑発的ともとれる不敵な表情を浮かべていた。不躾な表情を、しかしさくらは気にさわった素振りすらみせず、受けながす。二人の理解容易ならざる力関係の一端が、垣間見えていた。
 いくらやってもしょせん暖簾に腕押しと忍は、ついに悟った。いままでの労苦を厭うように、肺のたまったすべての気体を溜息にして吐き出した。全身から、力が抜けていく。この年若い叔母に、いまだに勝てないのはずいぶんと癪、だった。

「……おっけぇー、承りましたよ、さ・く・ら・叔・母・さ・ん」
「助かるわ、しのぶ」
 
 その悪態が、忍にできたたった一つの反抗手段だったのかもしれない。それすらも、さくらには柳に風だった。……いや、よくよく観察してみると目元が痙攣している。忍は、それなりの意趣返しをできたらしい。



「あっ!」

 唐突に、しのぶが奇声をあげる。一同の視線が自身に集まるなか、恭也にすりよった。古今東西通じて、正しい耳打ちのポーズで内緒話をしかける。

「ねぇ、恭也……雫、どうしよう?」

 そう問われ、視線を愛娘へとおとす。父親の分までケーキをいただいた雫は、手持ち無沙汰に足をプラプラ揺らしていた。だいすきなおとーさんと視線があうと、にぱーっと大輪の花のような笑顔をはなつ。少々乱暴ながら、無骨な手つきでくしゃりとあたまを撫でた。

「心苦しいが……ノエルに頼むしかないだろう?」
「そっか……連れてけないよね」

 この海外渡航には危険も充分、考えられた。大人ならば避けられる危険が、雫ぐらいの年頃では避けられないことも多々ある。我が子に世界の広さを見せてやりたいのは山々ではあったが、まだ早すぎるだろう。
 だが、それらを理解していても、忍の口調はどこか寂しげな間を含んでしまう。それには、一概に寂しさだけといえない複雑な心情が、隠されている。そんな忍の気持ちを正確に把握できるのは、ノエルだけだった。


「……ちょっと、いいかしら?」

 雫なしで話がまとまりかけた瞬間、さくらが二人に声をかけた。二人は顔を見合わせると、訝しげにさくらへと向き直った。

「今回の件に、ノエルも……同行させてほしいの」
「……珍しいね。さくらが注文するなんて」

 一端、言葉を切り、立ったまま控えていたノエルに視線をやる。何らかの意図がありそうなのは、明白だった。
 忍は、この叔母について信頼も信用もしている。だから頭ごなしに拒否することだけは、なんとか堪えることができた。それでも口調がそっけないものになってしまったのは、親心として見逃してほしい。

「あ……ごめんなさい。先走ってしまって……物事はキチンと伝えないと、ダメね」

 ん――コホン。と調子を整えるかのように、咳払いをした。その、どこまでも悪意のない反応に、忍の苛立ちは肩透かしをくらった。

「今回の調査期間中、雫ちゃんを、ウチで預からせてもらいたいの。できれば、雫ちゃん一人だけで、お泊りしてもらたいんだけれども」
「…………さくら、ゴメン。言ってる意味が、ぜんぜん理解できないよ」

 困惑を隠さない表情で、忍は告げる。さっぱり意図がみえない。いつもは有能然としているさくらだったが今日にかぎって……どうやらへっぽこになってしまっている。そういえば、出迎えた当初から、どこか落ち着きがなかったし、雫をみて表情を盛大に崩していた。

「あ……そ、そうね。私ったら浮かれてしまって、いまからこんなんじゃ、ダメよね」
「……イイから。最初っから喋ってくれれば、それでイイから」
「そ、そう?」

 いつまでたっても、話が進まないことに焦れた忍は、促がした。そわそわして、ふわふわして、急に赤面したりもする。やっぱり今日のさくらは、どこか変。壊れちゃったのかな。順に月村母娘の感想である。さすがは親子。身内に容赦がないところは、よく似ている。

「えーっと、ね。どこから話せばいいかしら……」
「……落ちついて深呼吸してください。それからお話してくれれば」

 たまらず恭也が口をはさんだ。日頃の落ち着いた雰囲気など、どこ吹く風。恭也の口上に合わせ、ふかい呼吸を素直にくりかえした。それで、いささか落ち着いたのか。いつもと同じさくらがもどってきた。

「ごめんなさい。しのぶも、恭也くんも。……ちょっと、照れくさいのだけれども……。私、妊娠したの」

 その一言に場の雰囲気が一瞬で解凍され、そして爆発する。すぐに反応できたのは、雫ひとりだけという散々な有り様だった。妊娠……お腹のなかに赤ちゃん、いるの? と不思議そうに首をかしげていたが。

「それは……おめでとうございます、さくらさん」
「ありがとう、恭也くん」

 とろけそうな笑顔が、待望まれていた子だということを示していた。

「……そっか。さくら、おめでと」
「ありがと、しのぶ」
「そっか、そうなんだ……。さくら、お母さんになるんだ……うん、さくらならきっといいお母さんになれるよ。わたしが保障する」
 
 つよく断言する。言いたいことは、たくさんある。この年齢まで付き合ってきたから、不満も感謝していることも山ほど。すでにほどきがたい関係になっていて、それらを素直に打ちあけるのはためらってしまう。
 でも、今は。今だけは、すなおに祝いの言葉を送れた。それが、まだ見ぬ叔母の子どもよりも嬉しかった。

「本当は、ね。この件も発覚するまで、私が調査しようと思っていたのだけれど……さすがに、飛行機はよくないでしょう? だから、貴方たちに回しちゃったの」

 さくらは腹部を撫でながら、幸せそうな表情で語る。はた迷惑な内容のはずなのに、彼女のあたたかい空気だけで、ほのぼのとしてしまう。 語りは止まらない。どれほど幸せか、延々と喋っていく。聴衆の意思など端っから無視して。
 恐るべし、幸福ぱわー。

「―――そういうわけだから、雫ちゃんを預かりたいの。どうかしら?」

 唐突に――少なくとも忍はそう感じた――話が切り替わり、最初に戻っていた。妊娠云々で驚かされたため、すっかり忘れていたが、そういう切り出しだった。忍は、夫の表情をうかがう。

「雫。しずくはどうしたい?」

 キョトンとしている娘に、静かに語りかけていく。たとえ、それが我が子であっても無理強いはしない。態度でそう証明する彼の姿は、まぎれもなく父親の顔をしていた。
 さくらが、忍が、ノエルまでもが、息を詰めて返答を待つなか。雫はあっさりと答えた。「泊まるー」それが幼子のだした結論だった。





 二重の良い返答に満足し、さくらは帰っていった。おそらくこの後、童顔の旦那さまと生まれてくる我が子について、語るのだろう。待望の第一子だ。嬉しくないわけがない。訪問客のいなくなった応接室で、恭也は冷めた茶に手を伸ばしていた。

「あの夫婦にも、新しい家族が誕生するのか……なんだか不思議だな」

 ソファーとテーブルの間から娘は顔を覗かせ、「ふしぎー?」と恭也の真似をする。どうでもイイことかもしれないが、どうして子供は狭い場所を好むのだろうか。

「あぁ、不思議だな」

 そう答えるだけで、嬉しくなったのか。雫は抜けだしながら、「ふしぎっ、ふしぎっ、ふっしっぎっーー」とリズムをつけて、唄っていく。そんな様子に、思わず恭也の頬は緩んでしまう。判りにくいが、彼もじゅうぶん親ばかなのだ。


 親子のそんなコミュニケーションを、すこし離れたところで忍はみつめていた。恭也が父の表情をするならば、彼女もまた同様に。慈愛あふれる表情はまさしく母親のそれであり、父娘をおだやかに見守っていた。

「ウチも賑やかになったよね」

 脇に控えたノエルに、二人っきりの時代との差異を愉しむかのように語りかけた。コポコポと、人数分のティーカップにそそぐ音が返答代わりだった。

「もしも…………」

 ポツリとつぶやいた。ノエルは、Wedgwoodのカップを近くへと置いた。配り終えると、そのまま、同じように忍の脇に控える。無理に問いただそうとはしなかった。

「…………あの人たちが生きていたら、もっとにぎやかだったの、カナ?」

 想いを、でてきた言葉を誤魔化すように、カップに口つけた。さびしそうな横顔だった。ノエルは無言で、傍に存在するだけ。言葉は不必要だった。この屋敷のものしか、ノエルは該当するデータを持ちあわせていない。胸中だけで、結論を下した。
 お嬢さま。その問いにたいする回答をだすのは、わたしにはどうやら不可能のようです。











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