普段となんら変わることなく、ノエルはタオルを差しだした。恭也も、それを無言で受け取る。どうという事もないルーチンワーク。いつもと変わらぬ光景……のはずだったが、ノエルは引っ掛かりを感じた。何というか、空気が違う。恭也が汗を拭きとっている最中も、引っかかりはおさまらない。むしろ、ヒシヒシと強くなっているようだった。違和感を和らげるために、言葉を紡いでいく。

「お疲れ様でした、恭也さま」
「……あぁ」

 いつもと変わらぬ声色で、恭也の反応を窺った。すこしの間ののち、恭也は顔を拭ったハンディタオルを肩にかけた。

「いつもとは少々、違うメニューのご様子でしたが……恭也さま。御不都合があれば、何なりとお申し付けください」
「あぁ……」

 ぼんやりと、恭也の瞳が空をさまよう。彼があまりしない類の表情だった。ノエルには、それがすこしだけ気になった。もしも体調不良――病気や怪我ならば、はやめに完治させた方が良い。使用人として当然の気遣いは、しかし生返事しかひきだせなかった。

「……気にしないでくれ」

 窺うノエルにようやく気付いたのか。恭也はそれだけをとっさに口にし、そっぽを向いた。ただ、自分でも分っていたのだろう。付け足すかのように、ボソリとこぼす。

「……今朝、すこし夢を見た。とーさんの夢だった、それだけのことだ」
「……高町士郎さま、ですね。お名前は伺っております」

 その人の名を口にしただけで、彼の空気が一変した。いや。大雑把にいえばたしかにそうなのだが、変わったと評するのはどこかしっかりこない。むしろ、そう。名を与えられた途端、雰囲気が集束したというべきだろう。
 その動きはとてつもなく緩慢であり、怠惰の匂いが動作の端々から感じられた。死期を迎えつつある老犬のような気配すら漂わせていた。彼女自身は彼の感情をあらわす言葉について、あまり詳しくない。理解しているともいえない。だが、知識としてなら知っている。

「……郷愁」

 口の中だけに留まるよう、その音を転がす。彼の感情はそれで表すのが、もっとも妥当だろう。

「強く、偉大な御神の剣の遣い手だった。……未だに勝てない」

 遠くをみやる瞳にどんな光景を描いているのか。ノエルにはわからない。わからないから、ずっとみつめていた。入り込めない時間がヒトには、ある。近くて遠い彼の傍らで、ノエルは静かに傍に控えていた。主人の命があるまで、ずっと。




 
 主の気配が変わった。瞳の焦点が徐々に現実へと移行し、思いだしたように身動ぎする。過去から現在へとようやく意識がシフトしたようだった。主の微妙な間を感じ取り、ノエルは呼吸を整えた。よりいっそう彼女は非の打ち所ない完璧なメイドへと、自らを戒める。

「……すまない、ノエル」
「いえ」

 言葉数は少ないものの、それで尾を引きかけた話題は鳴りをひそめた。過剰な緊張はとれ、視界に色や季節が戻ってくる。

「……なぁ、ノエル。さっきの所見を聞かせてくれないか?」
「鍛錬の、でしょうか?」
「あぁ。ノエルの目からみた意見がほしい」

 目と目を合わせ、穏かに恭也は要求する。無用の長物と二人ともに理解していながら、先ほどの鍛錬を話題としていた。二人とも器用に渡り歩ける性格じゃないから。こんな風にしかできなかった。
 
「イメージ具現化、その上であれほどまでに冴え渡った演舞のキレ。お見事な御技でした。有用な動きは、後ほど参考にさせていただきます」
「そう、か」

 どこか含みのある相槌だった。長年の付き合いからそれと察し、ノエルは非礼にならぬよう最大限の注意をはらい、問いかえした。

「ご不満のようですね」
「……あぁ。まだまだ、な」

 ノエルが否定する前に一度、大きく頭を振って溜息を吐き、恭也は告げる。

「細部のイメージ作りに失敗していた。ホンモノなら……本当のとーさんなら。俺がどう足掻いても、勝てない。とーさんは、そういうヒトだ」

 誇らしげに胸を張り、しかし幾許かの哀しみを内に秘めて、恭也は父を語る。
 父親、というものがどのようなものか。ノエルはしらない。彼女は父という存在と縁が少なかった。彼女自身の父親的存在など、果たして存在したのか危うい。その上、主たる忍の両親は、彼女が起動する前後になくなってしまっている。高町の家系も、父親を失っている。よくよく考えれば、じつに縁がない。

 ……ひとつだけ、該当する一例があるとすれば……それは雫に接する恭也に他ならない。穏かに微笑む彼の姿だけが、ノエルに“父”という存在を感じさせる人物。
 優秀な自動人形たるノエルでも、情報不足の現状では、なにも判断つかなかった。だからこそ言葉に詰まった。身の置きづらい沈黙がそこにあった。

「……なぁ」
「ハイ」

 短い問いかけに、さらにみじかい硬質な相槌が返される。沈黙を破ったのは、いつもと同じく恭也のほうからだった。

「……ようやく、身体が温まってきた。ノエル、一本付き合ってくれないか?」

 彼のトレードマークともいうべき、口より雄弁に語る暖かな瞳がノエルを直視する。否やの問いは、彼女の中にありはしない。

「ご命令とあらば」

 受けて、ノエルも僅かに微笑んだ。



 朝の陽光を背にし、二人の姿が浮き上がっていた。いつもは平和な豪邸の庭園は、いまや緊迫した空気に包まれていた。それでは、さぞ戦いに似つかわしい情景だろうと思いきや、そうではなかった。片や、黒いスウェットに身を包んだ青年。片や、どこからどう見ても正統派メイドルック、西洋の血が混じったらしき美女。一方が割合、TPOにあった服装をしているだけに、シュールさを売り物にしたファルスにしか見えない。
 だが、それでも彼らの間に流れる空気はホンモノだった。

「勝負は、徒手。そうだな……一発入れたほうが勝ち、というのでどうだ?」
「私は結構ですが、恭也さまはそれで鍛錬になるのでしょうか?」

 彼女の返答には一理あった。基本能力からして、自動人形と普通の人間では差がありすぎる。熟練の御神の剣士といえども、その差は並大抵のことでは埋められない。さらに言わせてもらうならば、無手という条件は大きい。
 一面から見れば対等の条件にも思えるが、その実、恭也にとってはこの上なく不利だ。御神流の真骨頂――多選択肢による攻撃バリエーションが限定される。この条件は、彼をしてすら厳しいもののはずだ。
 唯一、ノエルの敗北要素として挙げられるのは、神速からの一撃必殺。いくら自動人形の反応が優れているとはいえ、神速に即時対応するのはいささか難だ。難ではあるが……くるかもしれぬと判っている以上、不可能ではない。

「ひとつ、試したい技がある。そう簡単には、負けるつもりもない」

 自信に満ちあふれた、張りのある声ではない。だが、逆にその平常さが自信の現れともとれた。疑念がノエルを慎重に構えさせた。
 すでに二度、さきほどの鍛錬で恭也は神速を使用している。彼の回数制限は一日3回。計算どおりならば、残りは1回。先刻、披露した神速連続使用も無理だろう。一発限りの牙、というわけだ。
 ……さりとて牙であることに変わりはない。充分に間合いをとり、大地を踏みしめる。心身充溢させ、待ち構える体勢をノエルは整えた。





 男は落ち着きなく視線をさまよわせていた。尻がもぞもぞと動き、高級な一人がけソファの上で居場所を探している。室内の豪華な装飾も、彼を落ちつかなくさせている一因だった。はっきり言えば、気後れしていたのだ。
 これが成金趣味のけばけばしいものだったならば、まだ余裕を保てただろう。彼でもわかる、いや彼だからわかったというべきか。この部屋にはホンモノしかない。驚くほど多いわけではないが、壁にかけられた絵画はその道では名の知れた絵師による風景画であったし、生花をいけられた花瓶は有名ブランドの手による一品ものだった。それら真作のもつ圧倒的な気配が、彼の余裕を根こそぎ刈りとっていた。
 その上、彼は待たされる立場にあった。無理もあるまい。屋敷の当主は忙しく、一族とはいえアポイントメントも取り付けずにやってきた彼は、良くいって予期せぬ来訪者。悪くいって厄介ものでしかないのだから。

 しかし、それでも彼は考える、遠路はるばるドイツからやってきた彼に対して、この扱いは失礼の極みであると。彼はVONフォンの称号をもつ、れっきとした貴族だった。それも古くからの名家の流れをひく由緒正しい家柄の出だった。それだけに、自分の血に並々ならぬ誇りをもっていた。

 虚栄心によって精神を立て直した次の瞬間、彼の待ち望んでいた局面が展開した。重厚な木製扉が開かれたのだった。

「お待たせして申し訳ありません、ミスター」

 お国言葉ではなかったが、流暢なクイーンズイングリッシュで声をかけられた。正直に言えば、彼はその言葉にすぐさま反応できたわけではなかった。扉から出てきた人物に見惚れてしまっていたのだ。
 端的に表現しよう。彼女は美しかった。腰辺りまで伸ばされた髪、東洋系らしいエキゾチックな顔立ち、肌は白くパウダースノーのよう。何の変哲もないビジネススーツも、美女が着ればきらびやかなパーティドレスに匹敵することを知った。
 美貌もさることながら、立振舞がもっとも彼の目を惹きつけた。たおやかな仕草に一本の線が入り、毅然とした情感を与える。東洋のちっぽけな島国で、ノーブルの晩餐会にこそふさわしい淑女と出逢えるとは、夢にも思っていなかった。

「ミスター?」
「……あぁ、すまない。私としたことが、フロイラインお嬢さんのあまりの美しさに、心奪われ呆けてしまったようだ」
「お上手ですね」

 ドイツ生まれドイツ育ちという彼のプロフィールを疑いたくなるような、歯が浮くセリフだった。むしろ、イタリアかフランスで育ちましたと言われたほうが、説得力があった。
 ラテン系の情熱こもった口説き文句を、彼女は一言でかわす。序幕の役者はどうやら、美女のほうが一枚も二枚も上手のようだった。

「当主代理の、綺堂さくらです。早速ですが、ご用件をお伺いいたします」

 綺堂さくら、聞きしに勝る美貌の持ち主だった。



 促がされたものの、彼は戸惑っていた。ことはプライベートな恥部に深く関わっている。すでに抜き差しならぬ状況であったからこそ、故郷を出立してきた。羞恥心をかなぐり捨て、綺堂に頼ろうと決意もしてきた。だからこそ、遠路はるばる極東の地までやってきた。少なくとも、そのつもりでいた。
 だが、現実はどうだ。予定外のアクシデントと遭遇したとはいえ、この体たらく。自身を蔑んでも、躊躇いから口が思うように動かないという不甲斐なさ。言葉にしようと口を開き、また閉じる。そのくり返しだった。

 さくらはといえば、煮え切らない態度の訪問者に次第に険が増していく。それもむべなるかな。アポイントメントもとらず、飛び込みで重要な案件があると伝えてきたのは、男の方だ。 普通ならば、門前払いを喰わせるところを一族――しかも名家の出ということで、時間を割いたのだ。男の態度は礼に欠いたといっても過言ではない。それでも律儀に付き合う彼女を、大人になったと思うべきだろうか。
 幸運なことに、彼女の怒りは爆発する機会を失うことになる。男がためらいがちながらも口を開いたのだ。

「…………自分の恥を晒すようで、あまり喋りたくはなかったのですが……ココまできてしまった以上、口を開かぬわけにはいきますまい。……現在、いささか食うにも困る生活を私は送っているのです。用件というのは、他でもない。すこしばかり用立てていただけないかと、恥を忍んでご相談にきた次第です」

 決心がついた後の男は速かった。立板に水のごとく、次から次へと言葉を並べていく。主観的に不幸な境遇を必死さを全面に押し出して、それこそ真剣に訴えかけていた。だが、それに半比例するようにさくらの視線は冷たくなっていく。

「お帰り下さい」
「なっ!?」
「ビジネスならば、お話も伺いましょう。親交があれば、幾許か用立てもしましょう。ですが……たとえ一族であっても、今まで一度もお会いしたこともないお方に、無料で融資するほど綺堂は落ちぶれていません」

 正論だった。聞いていて耳が痛くなるほどに、正論だった。男は声にならない声をあげるばかり。それで話は終わりといわんばかりに切り捨て、さくらは腰をあげようとする。だが、気を取りなおした男が呼びとめる。

「それは誤解です、フロイライン。なにも、私はタダ融資してくれと言っているのではありません。こちらの商品――情報に値段をつけてくれないかと打診しにきたのです」

 浮かせかけた腰が訪問者の一言で、ふたたび椅子に根をはった。彼はばれないように張り詰めていた息を吐き、胸を撫で下ろした。吹けば飛びそうな根であろうとも、はったことに変わりあるまい。
 ビジネストークは齧っただけの素人だった。当主代理とはいえ、名門綺堂とは格も経験も違いすぎる。聞く体勢にできただけでも、上出来の結果だった。
 だが、まだ本懐に達していなかった。いつぞやのように、相手のいいようにされてしまうかもしれない。とにもかくにも、とりあえず交渉のテーブルは用意された。心の内でガッツポーズをとることぐらい許されるだろう。

「それで? その情報とは何なのです」
「私の屋敷には地下室がありまして……。もっぱらガラクタなどを積み込んでいたのです。ふと思い立ちまして、ね。先日、そこを掃除がてら探索してみたのですよ」

 迂遠な言い回しは、そういうテクニックとわかっていても苛立つ。一応、話ぐらいは聴くと決めたものの、イライラが収まることはなかった。脇に降ろした細い指が、ソファーに引っかき傷を作ってゆく。
 場の主導権は、まちがいなく男の方にあった。まるで人生経験の差がそのままこの事態を招いた、なんて錯覚すら覚えてしまう。決定権がさくらにあるといっても、慰められることはない。ソファーの傷は増えていく。

「情報というのは他でもない。先日、そこでみつけた資料を、貴家に買い取っていただきたいのです」

 さくらはジッと疑惑の目で男を見た。融資、用立て……取りつくろう表現は多々あるが、その実ほとんどがまゆつば――有り体にいって詐欺もどきが、ほとんどだ。一見の客ならば、尚のこと。

「お疑いは至極、当然のことだと思います。が……少なくとも私はホンモノだと思っています。資料といっても、自動人形の納品書なのですから」
「それは……」

 ぐっと話の信憑性が増した。すくなくとも、さくらはそう感じた。これが手紙やただのメモ書きだというのなら、虚言の可能性が高かった。納品書ならば、綺堂にも真贋見極められるだけの資料がある。
 ただ……不可解な点が一つ。納品書単体の価値はさほどでもない。わざわざ綺堂に持ち込んだ以上、付加価値があると見て、しかるべきではなかろうか。

「無論、貴家にとってこの程度の資料、なんら価値がない物でしょう。私とて、それはわかっています。買っていただきたいのは、その裏にメモ書きされた――とある住所と思しき情報そのものなのです」
「……一族の、古い住所、でしょうか? こういっては何でしょうけど。別段、珍しい物では……もしかして?」

 ある点に思い当たったかのように、さくらは声を荒げていた。
 そもそも、夜の一族は長命なぶん子供ができにくい傾向が認められる。一族のなかには、相続人がいなくなり、お家断絶に陥るというのも珍しくない。名家や資産のある家系ならば、養子の当てもあろうが……。彼らの抱える特殊な事情を考えれば、それもまた容易ならざる道だということに気付くだろう。
 しかし、今とり立たされている問題は、そこにはなかった。 

「えぇ。ご想像の通りだと思います。我らと血を同じくする人形師の屋敷……もしくは工房ではなかろうかと」

 さくらは目を閉じて、男に判らないよう思考に耽った。ありうる話だった。自動人形はその作品――完品、故障品、廃棄されたものを問わず――が割合、発見されているのに対し、それを製造していたと思しき工房は発見されていない。可能性だけで論ずるならば充分、ありうる話だ。

「確証はありません、ましてや保障もありません。……ですが、掘り当てた時のリターンは目を見張るものがあるかと」
「それが本当だとしたら、非常によいお話ですね。しかし、どうして貴方が当家に話を通したのですか?」

 冷めた瞳で、さくらは相手を見据えた。
 詐欺の常套手段は、真実のなかに嘘を織り交ぜていくことだと聞く。騙す相手が信じたい話を聞かせる、それも有効な手だ。さくらには目の前で話す男が、よき商売相手になると信じられなかった。

「お恥ずかしい話……当家の財力では宝捜しすらままなりません。たとえその問題をなんとかし、希望通り自動人形を見つけたとしましょう。それが稼動するならば、まだ元は取れますが……廃品ならば目も当てられない。そういうことです」

 もしも、自動人形の生産ノウハウを発見できれば、それだけで一生遊んでくるだけの財が転がり込んでくる。それでなくても、稼動する機体のひとつでも発見、好事家に売りさばけば、数十億という金額を手にすることができるだろう。
 しかし、それは賭けに等しい行動だった。見返りが魅力的な反面、掛け金もそれなりのモノを支払わなければならない。なにひとつ発見できなかったなら。妄想を願望にすりかえ、希望とし、見当違いな行動に突っ走っていたなら。
 所詮、没落貴族でしかない彼は、再起不能のダメージを負うことになるだろう。それこそ貴族位すら売り飛ばすハメになるかもしれない。それだけは避けたい。

「それに……私とて、誇りある“夜の一族”の一員。我らの遺産が、欲深き罪人の手に渡ることは避けたい。…………もう、ヒトに怯える日々は、ゴメンだ」

 紳士な口調をかなぐり捨てて、己の心情を吐露していた。吐き捨てるように紡がれた言葉には、どうしようもない真実味があった。
 今日でこそ、多くの一族は社会的成功を収め、世界と上手く適合している。だが、昔からそうだったわけではない。彼らをして、安眠を享受できぬ時代もあった。いや。むしろ、安らかに生き、そして死ねる生活のほうが稀だった。
 ヒトは異質なモノを恐れ、排除しようとする。日頃は笑顔でいる隣人が血を啜り、異常なチカラをもっているというのは、恐慌に駆りたてるに十分だったらしい。なまじ、一族が人と変わらぬ容姿をもっていたことも災いしたのだろう。
 そんな時代は、まさに地獄の日々だったと聞く。若いさくらには、馴染みのうすい歴史的事実だった。それでも長命種たる一族には、その恐怖を伝える人物も数多い。目の前の男が、その一人だとしてもなんら不思議はなかった。



 軽く息をはく。一見の客を信じろというのは、無理な話だ。無理な話ではあったが、事がことだけに放置するわけにもいくまい。
 この時代に、古代の叡智は危険すぎる。なまじっか高度な技術があるばかりに、一族の遺産ひとつが破滅の引き金になりかねない。ようやく一族がヒトを、一部ではあるがヒトが一族を受け入れる風潮が現れたのだ。さくらの個人的感情を抜きにしても、この世界は失うにはあまりにも惜しかった。

「当家といたしましても遺産ロストテクノロジーの管理には、多大な感心を抱いています。便宜をはかりましょう」
「それは……助かります」
「ですが」

 期待していた言葉を引き出し、男の顔はほころんだ。

「貴方の情報が正確であることが最低条件です。こちらから調査員を現地へ派遣してからとなりますが、無論、よろしいですね?」
「それは当然でしょう。むしろ、こちらの方が感謝の意を示さねばならないくらいです」

 その一連の会話が、商談が成立したのを示していた。



 詰めの話し合いもそこそこに、彼は席を辞することにした。もうすこし目の前の美女との歓談を楽しみたいという想いも、彼の内にあった。が、あいにく相手の予定表と折り合いがつかなかった。滅多にない好機は、やはりそうそう恵まれないものらしい。
 それでも、気は軽い。商談が予想以上にうまくいき、未来は順風満帆に思えた。こころなしか肌のつやは十歳ほど若返り、食欲も往年の頃のように旺盛になっていた。今夜の食事は充分、楽しめそうだ。あとは綺堂の調査員が首尾よくお宝を発見してくれるだけとあれば、笑顔のひとつやふたつ、でてきて当然だった。

 存分に去る者として礼を尽くし、扉をくぐりぬけようとした、そのとき。背後からの美女の言葉が彼の心臓を打ち貫いた。

「……そうそう、ミスター? 私の姪で月村忍という娘がいるんですけど……その子が自動人形、それもイレインタイプに襲われたそうですよ」
「……それが、何か?」
「ただの世間話ですよ。しかも、たまたま居合わせた彼女の親類――月村安二郎氏が大怪我を負ったそうです。……世の中、何が起こるか判ったものじゃありませんね」

 くたびれたスーツの中で、びっしょりと冷汗が吹き出ていた。日本人顔負けの愛想笑いで切り抜けた。その最中、そしてその後の記憶は定かではない。何かに取り付かれていたかのように、記憶がなかった。
 無事、ウサギ小屋のような滞在中のHOTELに辿りついた時には、夕食をとることすら忘れ、白いシーツに倒れこんでいた。





 待ちを決め込んだ相手の防御を崩すのは、難しい。無手という条件は厳しく響き、彼の選択肢を狭めていた。いつもならば、小刀や飛針を投げて崩すか鋼糸を放って崩す、といった手段も取れるのだが。あいにく投げ物も鋼糸もない。そう、他ならぬ彼が制限をつけてしまった。誰も攻める事はできない。
 制限をつけようとも、御神流は御神流だ。こちらから挑んだからには、やすやすと負けるわけにはいかない。たとえ、相手が人間の限界を超えた自動人形であろうとも。気合を入れなおし、拳を握り締めた。
 構えをこころもち下げ、ジリリとすり足で距離を縮める。カウンター狙いならば、絶好の好機。だが、ノエルは動かない。そう簡単に誘いにのってくれるほど、甘い相手ではないことを再確認した。

「……かかってこないのか?」
「恭也さまこそ、かかっていらっしゃらないのですか?」

 挑発にも冷静な声で返されるだけ。非常にやりにくい。仕方がないと、恭也は大きく息を吸って、吐いた。そしてもう一度吸い、ノーモーションで懐へと飛び込む。緩急をつけ意識の間隙をついた、理想の踏み込みだった。一直線に最短距離を駆け抜ける。
 だが、ノエルも然るもの。想定の範囲内といわんばかりに、対応する素振りをみせた。真上から、拳が打ち下ろされる。勢いとキレのある、強烈な一発だった。恭也はその身体を沈み込ませ、低空を這うように後方へと抜ける。拳が風を切る音を、耳朶のすぐうしろで聞いた。
 慣性のついた身体を、地面につけた右手でブレーキをかける。大地に触れた右手を軸に180度方向転換。目の前には、無防備な背中を見せるノエルの姿がある。まちがいなく、好機。悠長に息衝くことなどせず、ふたたび大地を蹴った。
 
 至近距離にまで足を運ぶと、あることに気付いた。背の高いはずのノエルの後姿が、奇妙なことにまるく小さくなっていたのだ。

 ゴチャゴチャ考えずに、腹筋の力だけで上体を逸らす。ロングスカートの裾がたなびく。美しくも細い右足が、凶悪な速度で鼻先数センチを通りすぎていった。軸にした左足を器用に動かし、くるりと向き直った。一連の動作に区切りがつくと、二人の立ち位置は真正面から相対する形に戻っていた。
 低く身を沈めたまま、視線をノエルのそれと合わせる。いつもは能面を思わせるほど平静な彼の顔に、隠しきれない薄い笑みがあった。

「まさか、回し蹴りがくるとは思わなかった。……それも忍の研究成果、か?」
「ハイ。空手のデータを流用させたと、お嬢さまは仰られていました」

 律儀に受け答えをする。表情はいつもと変わらずたいして変化はなかったが、豊かな胸をはって、こころもち自慢げにみえた。
 その声に、頬を僅かに歪ませた。自動人形の非常識さには、ぐうの音もでない。データを流用したくらいで技を再現されるというならば、世の格闘家はのきなみ足を洗うしかないではないか。そう愚痴りつつも、負けるなどとは思考の片隅にすらなかった。

 意識が散満したと感じとったのか。ノエルが仕掛けてきた。いまだ、身を沈み込ませせたままの彼めがけて、地すら削りとるような低い軌道の蹴りがくる。ご丁寧に、紙一重では避けにくい脇腹めがけての、だ。
 後方へと跳ばなければ、回避できない。そう判断せざるおえない一撃だった。だが、後退すれば折角、稼いだ距離が無駄になってしまう。かくして振り出しに戻る、はさけたかった。あるいは目の前の利益に囚われて、すぐ後の勝利を見逃す選択なのかもしれない。だが、無手となったことで抽斗が少ないのも事実。短期決戦こそ、彼の望む展開だった。
 だから、意をけっして踏みとどまった。ナタのような鋭さと重さを兼ね備えた蹴りが迫りくる。数多の実戦を踏んだ彼をして肝を冷やさせる、強烈すぎる一撃だ。
 うしろへ逃げだしたい弱気を押さえ、一歩ちいさく踏み込み、ノエルの右内腿へ掌をあてる。ロングスカートで隠されて難儀しそうであったが、蹴りの最中だったことが幸いした。不自然に膨らんだそこを、いきおいよく外側へ押しこむ。

「……フッ」

 爆発するような呼気とともに、ノエルの体勢がわずかに崩れる。それは限定的にみれば、ほんのすこしバランスが崩れただけでしかない。だが、恭也にとっては千載一遇に価する布石。すかさず腰を捻り、削られるだけ削ったコンパクトな掌打を細い顎めがけて、打ち込む。
 だが、肉に衝撃が伝わる感覚はついぞやってこなかった。素晴らしいを通りこし、憎たらしいほどの反応で、ノエルは首を捻っていた。正確にチンを狙ったのが災いし、突きだした腕は美貌の真横を通り過ぎていく。彼の身体が泳いだ。
 その隙をノエルが見逃すわけがなかった。くびれのついた腰を捻り、その柔らかな肢体を弓のようにしならせ、引いた右拳を一直線に打ちだす。弾丸さながらの速度で、ストレートが迫りくる。
 
 人の悪い笑みを唇だけで形作った。とはいえ、さほど猶予があるわけでもない。1も2もなく意識を特有の領域へずらす。色が落ちていく世界。加速する思考。固められた拳がゆっくりと向かってくる軌道さえ、はっきりと認識できた。
 そこで集中がとかれる。色が戻っていく世界。しかし一端、加速した思考はそのままだ。解除したとしても、さきほどまで見えていた景色が脳に刻み込まれている。大急ぎで、両脚へ命令を送った。極端に鈍く感じられる反応に苛立ちながらも、たしかに一歩分だけ身体は後退りしていた。
 微妙にひらいた彼我の距離に対処するために、拳のリーチを伸ばそうと肩を入れていた。その対応こそ、恭也の狙っていたもの。打撃の軌道自体は、モノクロの世界で見たものと変わらない。であるならば、対処するのは比較的、たやすい。
 迫りくる拳から手首を見極め、つかみとる。それを脇へそらすように引っ張る。その動作とほぼ同時に、身体を右拳の外側へと滑り込ませる。攻撃をいなした上で、無防備になった細首に指をかけた。剣士の常で、恭也の握力は同世代の常人を超えている。いかに自動人形であろうとも、へし折るぐらい……可能だ。
 それでチェックメイト。



 すぅとノエルの身体から力が抜けたことを確認し、恭也は細首にかけていた指を外した。そのまま広げ、ジッと掌をみつめる。鍛錬に集中していたために気付かなかったが、皮膚から指先へと温もりが伝わっていた。それは人と何ら変わりなく、次第に消えていく暖かさを惜しむ心さえあった。
 彼の感傷などおかまいなしにノエルは向き直り、恭也へと疑問をぶつける。

「恭也さま、今のはいったい?」
「……神速の限定発動とでもいうべき、か」

 そのいつにない積極性が、彼女の驚きを何よりも雄弁に示しているようで、忍び笑った。おそらくありえない事なのだろうが、目を白黒させたノエルを想像してしまう。笑いをかみ殺すのに必死だった。

 神速中に移動するというのは、肉体におおきな負担をかけると同義だ。加速する思考と身体の反応に差があるため、大気は重く抵抗をつよく感じてしまう。その差を埋めるために、使用者は無意識に筋肉を酷使してしまう。それが恭也にとって致命的だった。幼少の頃、負った古傷のせいで、彼の筋肉はそれを庇う構成になってしまっている。ほぼ完治した現在でも、その欠点は克服できていない。彼はまっとうな神速遣いとして、大成することはこれからもないだろう。
 ……まっとうな遣いかたが出来ないのであれば、いっそ邪道を追求すればいい。それが彼の出した結論だった。神速の限定発動もそのひとつ。神速状態では、相手の動きもスローで捉えられる。なればこそ、意識のみを神速の領域にとどめ、攻撃の軌道を見切る技として扱えば良い。

 神速の二段がけ、神速の連続使用、そして神速の限定発動。それらはバランスのよい筋肉を地道な鍛錬で身につけ、より長く神速の領域へ留まろうとする正道のやり方ではない。即時的に力のみを求めようとする邪道だ。しかし、御神流は清濁あわせもつ特異な流派でもある。あながち恭也のアプローチも間違ったものだと断定できないだろう。

「……試したかったこととはそれ、なのですね?」
「あぁ。ノエル相手にも通用するのであれば……充分だ。あとは使いどころを見誤なければ、役立ってくれるだろう」

 その言葉にノエルは目を見張った。恭也の全身から、おびただしい汗が噴出している。まるで水浴びでもしたかのような量だった。肉体的疲労度が神速に及ばないといっても、そこはそれ。神速の領域に足を踏み込んでいることに変わりない。精神的重圧や極度の集中によって、体力と精神力の双方が削られても、不思議はなかった。

「恭也さま、シャワーされた方がよろしいかと」
「……すまない。言葉に甘えさせてもらう」

 自分でも気になっていたのか。素直にノエルの勧めに従った。途中、彼女の手からさきほどのハンディタオルを受け取り、浴室へと足を運びはじめた。心地よい疲労とまばゆい陽光に、目を細める。達成感があった。充実感が彼の肉体を満たしていた。気持ちよく一風呂、浴びられそうだった。
 違和感が鎌首をもたげる。背後の気配が動こうとしていなかった。ノエルも庭に用はなくなったはず。てっきり彼女も家に入るものとばかり思っていたが、違うのだろうか。振り向き、呼びかける。

「……ノエル?」

 反応がない。

「ノエル、どうかしたのか?」

 再び、呼びかける。それでも返答はなかった。恭也は無意識に彼女の元へと近付く。そのときだった。彼女の肉体がグラリと揺れ、土へと崩れ落ちたのは。

「ノエル。おい、しっかりしろ。ノエル!」

 倒れこんだ彼女にかけよる。瞳は閉じられ、その肢体はズシリと重かった。意識自体を喪失しているようだ。抱きかかえたまま叫んだ恭也の声が、誰のもとにも届くことなく青空へと消えていった。










SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送