頬を照らすまばゆい光に、意識が覚醒していく。胸にはかすかな重み、全身を包みこむようにかけられたシーツ。夜はいつのまにか遠ざかり、朝が入れ替わリやってきたことを、日のひかりが知らせていた。首だけ動かしガラスの窓越しに見える空は、青一色。昨夜の天気事情などどこ吹く風と、雨雲は去っていた。
 胸板におかれていた細腕をやんわりと横へやり、震動を与えないよう慎重に、ゆっくりとはいでる。シーツを跳ね除けるのには、相応の気力が必要だった。布団にうつったぬくもりが肌を過ぎていく。ぬくもりは二人分なだけに、名残惜しかった。
 ささやかな気遣いなど気付きもせず、隣の眠り姫は幸せそうな表情で眠ったままだった。夢の中にあっても、隣の体温が逃げたことが不快なのか。失ったものを、手さぐりで探そうとしていた。
 寝乱れた髪を手櫛で乱雑に整え、ずり下がっていた布団を胸元までキチンとかけてやる。それでも、眠り姫はそのまま。寝汚いととるべきか、健康的な睡眠を愛しているのか。判断は評価者によって分かれるだろう。彼がどちらと取らえたのか。神様以外にはわからない。ただ、たしかに彼の唇はいとおしげな孤を描いていた。

 もう一度、名残惜しげに髪をくしけずった。さらりと掌を零れ落ちていく髪。夢の中で楽しいことでもあったのか。彼女は童女のように笑った。さらには、意味のない寝言を口の中でモゴモゴさせている。贔屓目ありだとしても、無邪気で可愛らしかった。
 貴重な朝の時間すべてを、寝顔を見ることに費やすことはできない。音もなく、ベッドから降りたち、手早く寝巻き代わりのシャツを脱いでいく。均整の取れた身体は鍛錬がもたらしたもの。しなやか筋肉で覆われた肉体は誰の目にも触れられることなく、闇色のスウェットに包まれていった。

「……さて、行くか」

 呟きは最小限の音量で。後ろ髪引かれる寝室の光景を尻目に、彼は扉を開けた。



 早朝の澄みきった空気を肺に取り込みながら、長い廊下を歩いていると心が穏かになっていく。誰もまだ足を踏み入れていない、という考えが殊更、この時間を貴重と思わせた。ここ数年で、屋敷の全容はほぼ彼の知るところとなっている。その足取りに一片の迷いもない。
 不意に、彼の足が静止する。前方から来る人の気配に気がついたためだった。足音は極力、たてないように、さりとて主にはたやすく悟られるように。仕える者として極めたプロフェッショナルな在り方には当然、覚えがあった。
 顔がみえる距離に至って、ようやく彼は動いた。ささやかすぎる声帯を振るわせる動作によって。

「おはよう、ノエル。……ねこも、おはよう」
「おはようございます、恭也さま。……鍛錬でしょうか?」
「あぁ……ノエルは朝食の準備か?」

 一部の隙もなくメイドの衣装を身にまとったノエルが、そこにいた。彼女の足元には、オプションかはたまたお供のように、小柄な猫が一匹。それだけで、日頃は冷静沈着を絵に描いたような彼女の表情が柔らかくみえるから、不思議だ。

「はい。……なにか、御用でもおありでしょうか?」
「あぁ。すこし、鍛錬に付き合って欲しくてな。無理ならいいんだ」

 どこまでも職務に忠実たろうとするメイドの鏡みたいな反応を返す。右手を下あごに触れさせるポーズをとった。物事を正確に秤にかけ、プラスマイナスを予測しているのだろう。思慮深い彼女の性格にはとても似合っている。
 ……それはある意味で、彼女の癖ともいえる。彼女は気付いていないかも知れないが、深く考えている時など、よくそのポーズをとっていた。

「那美さまもいらっしゃらないですし……お付き合いできますが」
「頼む。あとで中庭に来てくれれば、いいから」
「では、そのように取り計らいます」

 完璧に頭をたれ、彼女は恭也が来た道へと去っていった。二人が忍について一切触れなかったのは、そこにある種の信頼――彼女がこの時間に起きるはずがない――があったからに他ならない。否。もはや、信頼というよりも、月村家における絶対の真実とかしていた。





 恭也の遣う小太刀二刀・御神流――正式名称、永全不動八門一派・御神真刀流、小太刀二刀術は剣を扱うが、剣術ではない。正確に記すならば、剣術のカテゴリー内に収まらないといった表現が正しいか。
 相手が距離をとれば飛針が飛んでくるし、鋼糸によるトリッキーな攻撃も行う。無手であれば、関節技や打撃といった選択肢すらありうる。およそ人々が想像する“刀一本脇差一本を取って一対一での真剣勝負”からは、かけ離れている。現代の真っ当な剣術家からすれば、卑怯としか思えない技のオンパレードだ。
 そうだといって御神流を卑劣な剣と切って捨てるのは、いささか早計すぎる。両者の違いは重きを置いている対象の違いでしかないのだから。


 禁じ手とされる技は、高名な剣術流派にひとつぐらいはあるものだ。禁じ手を使用すれば、高い確率で勝利を呼び込める。だが、武士道に反する。戦国時代ならいざ知らず、幕府につかえた武士にとって勝利が第一ではなく、結果的に武勇の誉れが高くなることこそ尊ばれた。それ故に、禁じ手は禁ずられたともいえよう。
 翻って、御神流に禁じ手なぞないに等しい。それは御神流が歩んできた歴史、選びとった道に由来する。彼らは、木刀をとってする御前試合ではなく、血なまぐさい暗殺や不穏組織の殲滅といった真剣を遣わざるおえない状況で、糧を得てきた。実戦に、卑怯という言葉の入る隙間はない。生か死か、という状況において技を禁ずるのは、あまりにも馬鹿げている。勝てば官軍負ければ賊軍。言葉は悪いが、そういうことだ。
 その結果、御神流は剣術としてのカテゴリーから逸脱したのだろう。誉れではなく勝利を第一としてきたことを、御神の技は物語っている。御神流が現代まで脈々と受け継がれてきた理由の一つとして、虚ではなく実をとってきたその精神も列挙できるだろう。
 そして、彼らのあくまで勝利を求めるスタンスが、常勝に結びついたのは想像に難くない。それが彼らの価値を底上げしてきたのも。

 もっとも彼らにプライドがなかったのかといえば、そうではなかろう。柔らかすぎるほど戦いに関して柔軟な考えをもっていた御神流において、クスリや重火器の使用は驚くほど消極的なものだった。この事例から、彼らなりのプライドが透けて見える。
 いかに鍛錬の果てに銃に優る技術を得られるといえども、刀に頼るなど時代錯誤もはなはだしい。銃は、赤子だろうが何だろうが引き金をひけば、容易に人を殺せる道具だ。殺傷力が高い割りに、少ない練習期間でそれなりの腕にいたることができる。わざわざ、刀に頼る必要性は皆無に等しいではないか。

 しかし、現に御神の人間は、他ならぬ小太刀二刀を頼みとしてきた。だとすれば、彼らにはまっとうな剣術家とは異なる形での、誇り・プライドがあったと考える方が妥当というものだろう。……今は、もう確認のしようがなく、推測にとどめるしかないのが、じつに惜しい。


 技を揃えるというのは、それだけで優位にたてることが多い。切迫した状況で、選択肢が多いのは歓迎してしかるべきだろう。
 手札から最善と思われる役を選びだす。
 御神流は剣術や武術というよりも、チェスや将棋といった知的遊戯にこそ、よく似ている。相手の心理・動きを計算し、確実に勝利を収めるために先を読み、あの手この手で自身に勝利を引きよせる。戦いという場であるからには、大なり小なり不確定要素を孕んでいるものの、彼らは盤上の駒を動かすように戦い、そして勝利してきた。

 だからこそ、御神流は戦えば必ず勝つという、傲慢ともとれる得意な口上を口にしてきたのだろう。……しかも、その口上はほとんど破られたことはない。


 恭也はきわめて優れた御神流の遣い手でもある。以前こそ、膝の古傷で実力を十二分に出し切れていなかった。が、いま現在の状態――ほとんど完治した――ならば長い御神流の歴史の中でも有数の剣士といえよう。……そんな彼をして、絶対に勝てないと思う人物がいる。



 妹弟子たる高町美由希?

 否。その剣才、血筋は優れているものの、年齢ゆえに未熟な部分がある。今の恭也なら、楽勝といえなくとも、それほど労苦なく勝ちを拾うことができるだろう。


 霊剣十六夜継承者たる神咲薫?

 否。霊的戦闘ならいざ知らず、道場での闘いならいざ知らず。こと野外における純粋な死合いならば、勝ちをかっさらうのは割合、たやすい。


 人間にはありえないチカラを秘めたノエル・綺堂・エーアリヒカイト?

 否。たしかにそのタフさ、一撃のパワーは目に見張るモノがある。だが、そういう相手にこそ御神流の真価が発揮される。


 現存する遣い手の中で唯一本家で剣を習い、完成された御神の剣士といえる御神美沙斗?

 否。薬物投与による痛覚排除、筋力の増大、復讐への執念、修練の果てに辿りついた技のキレ。それらこそが、御神の裏を扱っていた彼女を最強たらしめていた。現在の彼女は、以前とは違う意味で強くなったが、弱くなりもした。
 それでもよくて辛勝が精々であろうが、絶対に勝てないというわけではない。


 では、誰なのか?
 

 答えはしごく簡単で、ひどく常識的なものだ。子がはじめてぶつかる壁は親。子が超えたいと思い、しかし容易に越えられない壁はというものは、親にほかならない。彼の場合、その対象は既に偶像化され、けっして超えられない、到達できない頂きへと変化していた。
 
 そう。高町恭也の剣の師にして、父親。すでに故人となっている高町(不破)士郎その人が、高町恭也をして絶対に勝利できえないとおもうヒト。



 限りなく本物に近く、限りなく実体を伴なった心像を作り出す。イメージは常に明るく、常に不敵で、高町恭也が知るかぎり最強の男。
 ……訃報が届いたあの日、恭也の知る実父は成長も老化も止めた。亡くなったという事実を認めた瞬間。八景を握りしめ、泣いていた幼馴染と義妹を慰めたそのときから、あの男は決して越えられない壁となってしまった。


 あの日、見失った後姿を高町恭也は、現在も追い続けている。


 細部までリアルに、細部まで“最強”という二文字を貼り付かせて。虚線を結び、焦点を合わせ、最強の幻影をココに現出させる。一際つよく戦ぐ風に一瞬だけ、瞳を閉じた。まぶたを開ければ、そこにかかわらない景色、変わらない光景。ただ、一点を覗いて。
 果たして、幻像の父は在りし日の姿のまま、懐かしい二刀差しで目の前に、いた。

「久しぶりだな」
「あぁ、久しぶり、とーさん」

 それが幻とはいえ、二人の剣士の再会だった。



 父がいる。亡くなったはずの父親がいる。不敵で、底抜けに明るいほほえみを湛えている父がいた。それは、恭也が作り出したイメージの現われ。実際に、士郎がいるわけではない。優れたボクサーは対戦相手の情報を集め、それからイメージを作り出し、トレーニングを行う場合もあるという。要は、それと同じこと。
 細部まで対象者のイメージを形作り、失われた人格を現出させる。口でいうのは簡単だが、容易なことではない。少しでも揺らげば、崩れ去る。そんな儚く脆い幻影を長時間、維持する労苦は想像に難くないだろう。並外れた集中力をもつ恭也だからこそ、といえた。

 端から見たら滑稽かもしれないな、と恭也は片隅で考える。刀を持った青年が広い庭園の真ん中で、独り言を繰り出しているのだから。だが、近付けば誰にも笑えはしまい。恭也から流れ出る雰囲気。それは故人を懐かしみ、語りかける、残された家族の鎮魂の匂いと、等しいのだから。

「桃子は元気か?」
「うん、元気に店を切り盛りしてる。……店も繁盛している」
「なんだ、何か言いたそうだな?」

 幻の父に対して恭也は、少々幼い言葉づかいをする。

「最近はもう一人、孫が欲しいと、すこし煩い」
「ははっ。桃子は見かけどおり子供好きだからな。我慢しろ。それが子の宿命だ」
「……とーさん」

 片目をつむり、愛嬌たっぷりのウィンクを息子相手にかます。変わらない父の言葉に、恭也は苦笑いとジト目で返すほかない。茶目っ気のあるといえば聞こえは良いが、もしかして根がひょうきんなだけじゃなかろうか。そんな想いすらよぎった。

「……それはそうと、美由希やなのはは、どうしてる?」

 息子の凍てつく視線を誤魔化すように、急ぎばやに口を開いた。額に一筋の汗が垂れているのは、はたして気のせいだろうか。気のせいでないとしたら、とんでもなく芸達者なイメージだ。

「…………問題ない。元気でやってる」
「そ、そうか」

 たっぷりと時間をおいてから、恭也は答えた。どことなく簡素な言葉に刺が含まれているように感じるのは、彼の視線が絶対零度の様相を呈しているからか。

 そんな父は、空を見上げた。青一色の空になにを見たのか。それは恭也とて、知りえない事柄だ。ただ、空の向うにある何かを見すえ、その瞳で果敢に掴み取ろうとしていた。あるいは剣士としての何かを空に重ねていたのもしれない。
 その証拠に、視線を恭也に戻した男の瞳は、まぎれもなく戦士の眼光を発していた。

「無駄話はこれまで、だな。恭也、おまえがどこまで高みを極めたか、コレで見極めてやる」
「ッッ、望むところ!」

 顔を引き締め、小太刀の柄に手をやり、音もなく二刀を抜き放つ。冴え冴えとした光を放つ刀身に、恭也の肉体が柄にもなく震えた。もとより、そのつもりでいたくせに気圧された。向かう相手は、最強の男。そんな事実が今更ながらに思いおこされる。

「どうした? 抜かないのか。先に抜かないのならば……こちらからいくぞ?」

 ニヤリとしか表現できない獰猛な笑みを、士郎は浮かべた。



 四本の小太刀が、その抜き身の刀身に太陽の光を浴びていた。反射光は最小限。夜間戦闘用に黒く塗られた刃金を見るにつけ、嫌な汗が額を伝っていった。相手の手の内を、恭也おおよそ理解していた。おなじ御神流の遣い手、さらにはじきじきに剣を習った。癖も、扱う技も、その体捌きも、見知ったものばかりのものなはず。だが、その初手の奇襲を受けたのは、やはり唐突に思えてならなかった。

「ほらよっ!」
「……クッ」

 無造作なくせに必要最小限の一挙動の内に、飛針が二本飛んでくる。その軌道はまさに正確で、避けづらい心臓と位置を若干ずらし腰めがけ、飛来してきた。御神流では、至極スタンダードな遠距離での牽制。
 恭也は腰をひねることで、体勢を崩しながらもそれを回避した。だが、それでほっと息をつけるほど御神の技は甘くない。
 物も言わず、音もたてず、黒鋼鉄の錘が飛んでくる。その後には、やはり目視しづらい特殊繊維で編まれた鋼糸が繋がっていた。熟達した御神の剣士であっても、鋼糸による攻撃を完全回避することは難しい。その鋼糸が、達人の手によって飛ばされたものなら尚のこと。

 左腕の動きを……封じられた。

 そう感じとった瞬間、恭也は残る右の一刀で前方の空間を横に薙ぎ払う。狙い通り、恭也めがけて突っ込もうとしていた士郎の動きを牽制できた。続けざま、二の腕のホルスターから飛針をぬき、急激な制動によって体勢を崩した士郎めがけ、放つ。

 甲高い音が戦場に響きわたる。

 恭也の投げた鋼鉄製の飛針は、士郎の小太刀によってあらぬ方向へと飛ばされていた。だが、問題ない。恭也が必要としたのは、その動作にかかる一拍。追撃をすることなく、右腕の小太刀を一閃、左腕に巻きついてた鋼糸を絶つ。

「かくして振り出しに戻る……いや、鋼糸がなくなったぶん、お前が有利かもしれんな」

 再びひらいた間合いに、軽口すらも見事に飛ばした。



 彼我の距離は、そう離れていない。一足一刀には遠いが、リーチの短い小太刀でも二歩踏み込めば斬りかかれる。そんな油断のできない距離だった。
 ほんの1、2合切り結んだだけなのに、小太刀を構えた恭也の両腕は重かった。緊張感が疲労を呼びこみ、腹の辺りで逆手にかまえた八景がズシリと重い。普段の倍以上にさえ感じられた。相手は悠然と構えているだけなのに、隙がない。どこに打ち込んでも返す刀で、ばっさりと斬られる。そんなイメージしか浮かばなかった。……その焦りがさらに疲労を呼ぶ。

「……中々、イイ反応をするようになったな。やっぱ師匠が良かった所為か?」
「あの計画性皆無の修行の旅をして、師匠の教えが良いとするのは……甚だ疑問だな」

 釣られ、悪態で返す。だが、余裕があるわけではなかった。勝てる気がしない。微妙に剣先をずらせば、トレースするようにまたずらされる。立ち位置、重心の掛け方を変更すれば、合わせるよう完璧に対応される。……まるで一挙手一投足、見張られているかのよう。
 変化がほしかった。状況を劇的にかえる決定打を、切実に求めていた。


「見合いしてても、はじまらんぞ? ホラ、打ち込んでこい」

 構えをとき、大きく両碗を横に広げた。余裕ととるには、あまりに大胆すぎる。たとえ高町士郎といえども、反応から行動までにタイムラグがある。意を決した。罠があろうがなかろうが。誘いだろうとそうでなかろうと。たしかに攻め込まなければ、何も変わらない。
 間合いの中へと、大きく一歩踏み込んだ。

「……ハッ」

 小さく小太刀を前に突き出す。狙いは右胸。矢のような速さで繰り出された刺突は、避けにくい。繰り出された刺突が達人の手によるものならば、受けに回った者もまた達人。魔法のように出現した小太刀によって、捌かれた。

「……ほぅ。臆したと思ったんだが……存外、思い切りもイイじゃないか」

 それでも、むこうの余裕は崩れない。どこまでも人を喰った態度のまま。反対に、こちらの体勢を崩される。だが、関係ない。押しきれば、済むだけの事だ。極度の集中によって、すでに戯言は耳に届かなくなっていた。

 間合いにいささか難はあるものの、小太刀の二刀術は極めれば、至極使いでの良い術だ。二刀を自在に使い分けることにより、攻め守りのレパートリーは格段に増える。攻勢へと転ずれば、その軽さと二刀による手数の多さで相手を圧倒できる。

 恭也が選んだのは、しごく単純でそれ故、対処が難しい戦法。すなわち、小太刀二刀術の特性を活用し、手数で攻めきること。相手が攻撃動作に入ろうが、かまわない。その前に刀を届かせればイイだけ。
 腰をひねる。手首を利かせろ。力強く踏み込め。全身の力を利用して、打ち込め。必要なのは速さだけではない。剛剣と速度の両立がなければ、目前の敵には通用しない。速く、重く、鋭く、強い斬撃を重ねていく。
 袈裟から逆切上へ。切上から逆袈裟へ。表一文字から裏一文字へ。唐竹から切上へ。まさに縦横無尽という言葉どおりに、剣閃が走っていく。リズムも違えば、連撃の回転率も違う。そこには、ただ、無数の斬撃があるのみ。否、もはや、それは斬撃というレベルではない。幾千の剣閃を積み重ねた――先の先であり千の線による重機関銃に等しい。

「ほらほら、どうした。もっと打ち込まなきゃ届かんぞ?」

 すべて、防がれる。小太刀二本を巧みに操り、変幻自在の剣閃に合わせていた。ただ防がれるのであらば、まだいい。剣の勢いをすべて殺されてしまっていた。まるで真綿でも切りつけているような感触に、恭也は戦慄する。とてつもなく柔らかな剣の前に、恭也の額からおびただしい汗が噴き出していった。
 恭也の斬撃一つとして、士郎には届かない。それどころか、気を抜いた攻撃をすれば、刀を絡め飛ばされかねなかった。実力の差は決定的であり、絶望的だった。ギリッと奥歯を噛み締める。これでは、幼少時の鍛錬の時と同じではないか。成長したところを見せなければ、一泡吹かせなければ、意味はない。


 小太刀と小太刀が重なり合った瞬間に、全身の筋肉を使い、後方へと跳んだ。爪先と地面が擦れる。また、距離が開いた。しかも、今度は恭也が働きかけて、間合いを取った。臆したわけではない。ただ単純にこのままでは勝てないと判断したためだった。
 追撃はまたもこなかった。当然だろうな、と戦闘思考の片隅で思う。相手にとっては、これは戦闘ではなく鍛錬でしかないのだ。イメージ的にいえば、親獅子に戯れる子獅子といった感じか。はじめから勝負にすらなっていなかったのだ。

「ふむ……今度は何を見せて、楽しませてくれるんだ?」
「……はぁはっ……ふぅぅ…………言って、くれる」
「おうおう、言うさ。まだまだ、あんなもんじゃ俺を斬ることなんてできないぞ。もうちょっとリキはいった奴で、かかってこい」

 小太刀で肩を叩きながら、言ってのけた。少なからず息が荒い恭也にたいし、士郎は汗がにじみでた気配もない。二人の実力を明確に表している光景といえよう。
 だが、このままで終っていいわけがない。恭也にも誇りがある。ただ圧倒されました、では他ならぬ彼自身が納得できない。音もなく、恭也は二刀を鞘に納めた。十字に差した刀、背中からその柄を前へともってくる。御神流でいうところの裏十字。納刀と抜刀を繰り返す戦闘スタイルに適しており、恭也のもっとも得意とする奥義に合わせた刀の差し方だ。
 
 不規則だった呼吸はすでに整えられていた。鋭い眼光で、目前の敵を見据えた。その眼差しに、畏れや忌避といった負の感情は一切、浮かんでいない。純粋なまでに研ぎ澄まされた意思がそこにあるのみ。

「抜刀の構え。虎切……いや、薙旋か。ひよっこがいっちょまえに粋がりやがって……」

 対峙している士郎もまた答えるように、小太刀を鞘に納め、半身に構えた。

「……二刀差しでイイのか、とーさん」
「…………あぁん? ハンデだ、ハンデ。やりやすくしちまったら、万に一つの勝機もなくなるだろう?」

 静かに問いを発した。その声色がまるで冴えた光を放つ名刀のようで、一瞬、呆けた。先程までの恭也とは、どこかが、確実に違う。士郎はゆるく構えた拳を一度、つよく握り締めた。柄にもなく、雰囲気に、剣気に呑まれたらしい。掌に大粒の汗をかいていた。

「なら……今回は勝たせてもらう」

 それが普遍の事実だと言わんばかりに、宣告した。





 動かない。いや、動けないというべきか。二人は微動だにしなかった。陽射しを遮って雲が影をつくり、それをそよぐ風が吹き払っても、二人は動かない。いつもと変わりない世界で、彼らだけの時間が止められたかのようだった。
 鍔にかけた親指に力がこもる。久々の、本当に久々に息詰まる一瞬というのを、士郎は肌で感じとっていた。
 相対した手前ああまで挑発したが、さりとてそれほど余裕があったわけではない。むしろ、恭也の剣碗に驚かされたといっていいだろう。あの若さで、師なくして、ココまでの高みに登りつめた。誇らしげに思う反面、寂しくも思う。本当ならば彼自身が叩きあげ、御神の奥義を肉体に教え込ませていたはず。陽気な男の面に、自嘲の色がにじみでた。

 いかん。崩れかけた集中をもういちど再構築する。生半可な対処では、勝てない。そういう高みに、息子は――目前の敵は、いた。

 よくよく考えれば、すぐれた剣士に育ったものだ。士郎をして、鋭く巧みと思わせる剣撃の数々。肉体と技術双方を長年、地道に鍛え上げなければ、あの剣閃には届かない。それは彼自身がよく理解している。精神面も同様に、一流の部類に属するだろう。鎌をかけたブラフにも動揺ひとつ起こさない、完璧に律された精神。
 思わず感嘆の吐息を漏らしたくなるほど、すぐれた御神流の遣い手だ。独身時代の士郎ならば、喜々としてその剣腕をたしかめに行ったであろう。

 これだけの要素が揃った息子につきいる隙があるとすれば、経験の差だろうか。だが、その希望すらも幾度か刀を合わせれば望み薄なのが、わかってしまう。若年ながらも、かなり老獪な戦い方を覚えている。
 数多の実戦を経験した表われであり、果たして、額面通りに“薙旋”で来るのか、それとも“虎切”でくるのか。はたまた、意表をついて抜刀以外でくるのか。
 御神流に奥義之歩法“神速”がある以上、実力が上であろうとも油断はできない。一手を読み違えたものが、結局は大地に斃れ伏すことになるだろう。無論、アドバンテージは士郎にある。剣碗、経験、反応、どれをとっても恭也よりも優っている。その上、おそらく神速の継続時間の長さでも、士郎の方が有利だろう。
 だが、それで安心できるほど目の前の敵は甘くない。美由希が御神流宗家の当主、御神静馬と不破の一子――御神美沙斗の血を継いだサラブレッドならば、恭也もまた然り。静馬と互角に戦え、天才と呼ばれた実力者――不破士郎の実子なのだから。


 息子の一挙一動すら見逃さんといわんばかりに、集中していた。意識はひどくクリアーだった。今の状態ならば、恭也の微細な身動ぎすら見極められる。そんな妄想じみた確信すら覚えていた。
 大人気ないということなかれ。父親の幻影として、彼が愛息にしてやれることは数少ない。それは本気で立ち向かい、刀つきあわせ、全力で彼を倒すことしかない。


 土踏まずを大地に密着させる。完璧なベタ足で、ほんのすこし距離を縮める。相手の意識を皮膚が感じていた。1mm近づくのに、多大な精神力を要する。心臓を素手で握られたかのような圧迫感さえ伴なった空気。士郎はその空気が嫌いじゃなかった。
 濃厚な気配のなか、歩を進めるのはチキンレースによく似ていた。度胸試しのそれではなく、命を賭した遊戯という意味でのチキンレースに。先に我慢しきれなくなり、手を出した方が敗北へ近づく。
 その観点からいえば、恭也はその若さに似合わず、優れた自制心を持った敵対者だった。普通だと、緊張に耐え切れなくなり暴発するものなのだが、寝ているのではないかと思うほど揺らぎがない。

 こころもち視線に、よりつよい光が宿ったぐらいか。

 御神の剣士同士の戦い。結局は、神速が勝敗を決する。ただし、その使い方が問われていた。どのタイミングで発動させるか。遅すぎても、ダメ。速すぎても、ダメ。加減がひどく難しい。
 不意に、恭也の身体から力が抜けた。油断とはすこし違う。不必要な力みがぬけ、自然体になったというべきか。その表情には、微笑すら浮かんでいた。直感した。恭也は先の先をとると、そう士郎のカンが告げていた。

 その通り、恭也は深く身体を沈みこませたかいなやで、踏み込んできた。まるで、引き絞られた弓が矢を放つのを思わせる突進。速いことは速いが……神速の域ではない。内心、当てが外れたと思いつつも、迎撃の構えを取る。
 柄に指をかけるのは見えた。その瞬間、一足一刀の間合いで恭也を見失った。脳内でアラームが鳴り響く。内心に焦りを覚えつつも、士郎もまた神速の領域へと踏み込んでいく。

 モノクロになる視界。神速中は見えていても身体の動きは鈍い。空気が水のように重く、腕一本動かすのにも苦労する世界。御神の剣士は神速を覚えて、やっと一人前の入り口に立てる。斬、徹、貫ときて、さらに厳しい鍛錬を重ねた者だけが踏み入れる領域――それが神速。
 神速を使う御神の剣士に、ほぼ敵はない。なぜならば、知覚外の行動に反応できる人間など滅多にいないからだ。だが、同じ神速遣いであれば……話は変わる。同じ領域で戦えるのならば、神速を扱えるというアドバンテージは消失する。どれだけ相手の行動を先読みできるか。そして、どれだけ神速の感覚を伸ばせるか。それらが勝敗を決する。
 視界の端で黒い影を捉えた瞬間、士郎は重い空気をかき分け、右を向いた。振り向きざま、鯉口を切る。だが、恭也はそこにはいない。神速の維持時間を引き伸ばしたというのか。焦りを募らせる集中思考のまま、消えた剣士の姿を追う。

 そして、見つけた。もといた場所に黒い剣士がいるのを。残る時間を振り向くことに専念させる。迂闊といえば迂闊な神速の使い方だが、今は何よりも体勢を整える方が先決。ふたたび重苦しい大気を掻きわけて、振り向く。向き直ったところで、視界に色が蘇った。神速の限界時間をすぎたのだ。だが、相手とてそれは同じ。

 鞘から刀身が抜かれる。鞘の中で加速し、さらに速度を増した斬撃が士郎めがけて、放たれた。だが、士郎も黙ってやられるのを見ているわけではない。抜刀には不向きな二刀差しから御神流奥義之六“薙旋”を解き放つ。その威力、速度。恭也の剣閃と比べてもなんら遜色なかった。だが、それでも、コンマ差で先に攻撃態勢に移った恭也の方が、若干速い。

 二つの奥義がぶつかりあう。八つの剣閃で構成された、ふたつの薙旋が真正面から相対した。錬鉄された鋼が空中で激突し、耳をつんざく甲高い激突音が響きわたった。





 事後、膝をついていたのは父の幻影だった。心肺機能を酷使し、荒い呼吸を吐いている。それでも小太刀を握りしめ手放さないのは、剣士としての矜持のなせる業か。低くなった視界でも勝利者の顔を拝められるよう、ゆっくりと頭を上げていく。ふたりの視線が交差した。

「……器用、だな、神速の、限界、時間、を、伸ばさ、ず。あえて短く、することにより、俺の神速の維持時間を無駄にさせるとはな」

 勝敗を分けたのは、抜刀に適していた構えだったかの一点。それでも、神速の維持時間で優る士郎に分があった。その分をなくすために足掻いたのが、恭也。
 彼が士郎と同じ領域で戦えるのは、四秒強。完治したといえど、長年右膝の古傷に悩まされた代償は大きい。現在の恭也では、それが精一杯。限界まで神速の領域にしがみつき、攻撃したところで、斃れ伏すのは目に見えていた。だからこそ、それ以外の方法を模索した。

 あえて神速へと先へはいり発動時間を短くし、解除する。相手に対応させる時間を与えた上で、二度目の神速へと移る。その一連の動作によって士郎の神速維持時間を無駄にすることができれば。
 勿論、賭けに等しい戦法だ。神速のオンオフが制御できるか。対応させる時間を読み間違えず、行動できるか。神速の連続使用に肉体が保つのか。一連の罠に士郎が引っかかってくれるのか。問題点は山積みだった。だが、それでも危険な賭けをしなければ、まぼろしとはいえ士郎相手に勝利することなどできない。

「ホンモノのとーさんなら、この程度の児戯……きっと破った」

 言外に所詮は紛い物という響きを含ませて、静かに答えた。恭也自身気付いていないのかもしれない。端っから紛い者と認識していれば、語りあう事もせず、ただ利用し戦うだけだということを。無意識の領域で、それでも幻影を父の一部と認めていたことに、恭也は気付いていない。

「……そう、かもな」

 低音でクツリと笑い、父の心像は幻影へと帰っていく。ぼやけていくその姿に、恭也は一抹の哀愁を覚えた。











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