開け放たれた窓から注がれる陽光に、目を細めた。久々の自宅で過ごす時間は平凡だが、それゆえに貴いものだった。
 朝食を終え、新聞をひろげるでもなく、テレビ番組に興じるでもなく、ただ緩慢にすぎていく時のなかにいる。このうえなく贅沢な時間の使い方かもしれなかった。
 それは停滞気味というよりもおだやか、と表現したほうが似つかわしい時の流れだった。感覚が遠のいていき、心がさざなみのように自ずとゆるやかになっていく。
 恭也も朝の鍛錬をしていた時とはまったく別の顔で、ゆったりと流れてゆく時間を楽しんでいた。ココでは、スケジュールを気にすることなく過ごせる。ココには、ガードすべき対象も、排除すべき要素も存在しない。
 恭也はひどく安らいでいた。おだやかな時の流れそのままに、緑茶を啜っていく。湯飲みの中身はとうに熱さを失っていた。だが、それがいい。シャキリとする熱さでなく、怠惰さのあらわれのようなぬるま湯が、逆に精神を落ち着かせてくれる。

「いや、いい」 

 目で問うてきたノエルを、簡素な言葉でその動きを制する。そっと、空の陶器をテーブルの上に置いた。日頃の鍛錬の反動からか、どちらかといえば恭也は静を好む。
 いまダイニングルームにいるのは、恭也とノエルの二人きり。那美は食事を済ませると、慌てたように、出かけていった。普段はもっとゆっくり……逆にいえば遅いぐらいの食事スピードなのに、従来比三倍増しだった。外せない講義があるらしい。もう一人にいたっては、床から起き上がってもいない。

「恭也さま、今日のご予定をうかがっても宜しいでしょうか」
「……そうだな。…………特にない、な」

 まとまっていた仕事を終え、早急にしなければならないことはなかった。黒塗り手帳の予定表には、何の文字も書き込まれていなかった。鍛錬はいつも通りのことで、ことさら予定という文字を使うには大袈裟すぎる。翠屋へ顔見せ兼手伝いにいくか、道場へ美由希の調子を見にいくか、それとも高町の家に足を運ぶか、などと漠然と考えていたぐらいだ。

「では、一つだけお頼みしたいことがあります」
「……珍しいな。ノエルが頼み事なんて」

 ちいさな驚きに、ノエルの整った顔をまじまじとみつめる。不躾な視線をものともせず、ノエルは言葉を重ねていった。

「雫さまを迎えにいって欲しいのです。私は少々、はずせない用事がありまして……」
「……なんだ。それなら、後で迎えに行こうと思ってた」
「そうですか……では、お願いしてもよろしいでしょうか?」

 恭也の口から了解の言葉が出た瞬間に、二人の会話は途切れた。主は椅子に折り目正しく座り、メイドはその傍らで静かに命を待つ。円を描く曲線のような柔らかな時間が、ふたたび流れていく。ようやく慣れはじめた日常が、そこにあった。





 古風な構えをした格子造りの門扉。その脇を飾るのは、これまた古風な漆喰で塗られた白壁。俗に青春時代と呼ばれる年月のほとんどを過ごした建物を見て、感慨無量の想いが込みあがってきた。
 今ではくすんでミルク色がかった白壁を、そっと撫ぜる。まったいらにみえたそこには、一条のくぼみが指で感じとれる。幼き日の義妹が小太刀の重さに振りまわされて、傷つけてしまった場所。日曜大工に慣れぬ義母と恭也とで、四苦八苦しながら補修を行ったのを今も鮮明に覚えている。
 視線を横に逸らせば、大小さまざまな無数の傷痕があった。それぞれに思い当たる節があり、それぞれに思い出がある。

 あの傷跡は、野外戦闘の訓練で飛針が突き刺さったもの。
 あの傷痕は、晶がスケボーで曲がりそこないぶつかったもの。
 あの傷痕は、免許取立てのフィアッセが新車で擦ったあと。

 そして……一等古く、周りが黒ずんでしまっている楔形の傷痕は、恭也が亡き父の剣閃を躱してできたもの。懐古の念が、セピア色の情景を映し出していく。想い出には、苦さと甘酸っぱさ、幸せだった味が織り交ぜられていた。



 いつまでも門扉の前に突っ立ていては、変質者と間違えられてしまう。ただでさえ、普段から黒系統の服装を好み、夏でも長袖シャツ着用の彼のことだ。昨今の犯罪事情との合わせ技で、通報される可能性はかなり高かった。

 いつまでもリフレインされるPastMemoryを名残惜しげに振り払い、門をくぐる。そのまま玄関も通り過ぎようとして、足を止めた。仕事に行く前に美由希に頼んだ盆栽たちは、果たしてどうなっただろうか。無論、頼まれごと――雫の迎え――は忘れてなどいない。
 だが、一度、思考の端にのぼってしまえば、気になってしょうがないのが人の常。恭也は暫し逡巡したのち、進路を変更した。向かう先は、愛しい盆栽たちがならぶ庭。


 高町家の庭は月村邸ほどでないにしろ、広い。小さいながらも風雛な池あり、様々な花が植えられた花壇あり、ささやかながら道場があり、ひなたぼっこをするのに最適な縁側があり、その上ボール遊びするスペースも十分とれるという昨今の住宅事情から考えると、恵まれすぎるほど恵まれていた。

 花壇の横を通り過ぎ、池の脇を抜けた先に、彼の目指す目的地があった。彼の亡父が是非にと建てさせた道場の横。そこに、ベニヤ板とアルミパイプで作られた年季の入った簡素な盆栽置き場がある。
 そこに至る道をワクワク感と郷愁の念で、歩む。その途中で、丁度、縁側から出てきたちいさな人影と、バッタリ目が合った。
 髪は長く、艶があって美しい。それに反して、容貌は幼い。頬の辺りは若干、プックリしていて血色がよく、手足は枝切れのように細く短い。典型的なお子様だ。その容姿は両親の良いところを総取りしたかのように、整っていた。今は驚愕で口をポカンと空け、だらしなくなっていたが。
 ありえないものでも見たかのように、紅葉のようなちいさな手でまぶたの辺りを擦る。そして、目の前の人物が消えていない事を調べるかのようにジッと目を細め、みつめる。

「ただいま、雫」

 その言葉で今までの硬直が嘘のように、動き出した。短い両足をフルに活用し、チョコチョコと忙しなく動かしながら渾身のダッシュ。ニコパッと花が咲いたような満面の笑みは、ほぼデフォルトだ。そのちいさな体躯が宙をまう。「おとーさん!!」という大きな声と共に、恭也の胸板へと飛び込んだ。


 柔らかく受けとめる。繊細に、壊れ物を扱うように、やさしく雫の身体を受けとめた。期待通りに抱きしめてもらった彼女はご満悦で、ちいさな額を胸にこすりつける。その様はまるで母猫に子猫が体臭をなすりつけるかのよう。
 気持ち良さそうに喉を鳴らすところも、まさに猫っぽい。切れ長の瞳も、猫科の動物を思わせる。彼女の母親もどこか猫っぽい印象があるから、母親の血を濃くひいたのかもしない。
 恭也はそんな少女の愛くるしい姿をみつめ返した。この懐っこい愛娘を仕事で構ってやれなかったのは、まぎれもなく父親である彼の責任。諦めて、好きにさせた。

「雫、父さんに抱きついてろ」

 心得たといわんばかりに、より密着度がます。恭也は両の手で抱きとめていた少女を、右腕一本だけでもしっかりと抱えた。自由になった左手で、長い髪を梳る。髪質も母親に似て、細いくせにしなやかに指が通っていく。
 少女の表情はまさに至福といった感じで、ゴロニャンと鳴きそうな気配すらあった。離れていた父娘のスキンシップが、そこにあった。



 雨の匂いがする。鼻腔をくすぐる香りに誘われて、空を見上げた。いかにも、な曇天が南のほうから空を制圧しはじめていた。一雨きそうな天気だった。
 恭也は髪を撫でつけていた手をとめ、そうそうに縁側へと引っ込んだ。薄いとはいえ一族の血を引いている娘。日光にあたりつづけるのも害悪だったが、雨にうたれるのも幼い身体には悪い。そう判断した故の行動だったが、幼子には不満だったようだ。
 腕の中で愛娘は頬を膨らませ、むくれていた。ちいさな頭を乱暴になでつけると、すくなからず機嫌をなおしたようだったが。

 縁側はほどよく日光で温められ、快適だった。陽の光、木の香り、草の香り、風の匂い。そして、風に乗ってくる雨の香り。自然が、五感を刺激していく。二人の目元は、真似でもしたかのように同じ反応をする。身近にある自然を想い、まぶしげに目を細めた。やはり親子だけあって、ちょっとした仕草がおどろくほど似ていた。去りゆく日光を惜しみながら話なんぞするには、丁度良い天候だった。

 彼がいない間にあった出来事を雫が懸命に話し、恭也は黙って頷き、聞き手にまわる。父親が聞いてくれる。それだけで雫はもう満足し、さらにヒートアップしていく。身振り手振りを使い、矢継早に語りかける様子は、端から見ていて大変微笑ましかった。恭也もその端正な顔立ちに、どこか暖かいモノを含ませていた。
 
 ひどく穏かで、それでいて賑やかな時間を体感していた。

「雫ちゃーん、雫ちゃーん」
「こっちだ、かーさん」

 家の中から聴こえてくる呼びかけに、短い返答で答えた。一瞬の静寂ののち、パタパタと軽快な足音が父娘のもとへ近付いてくる。居間から続く扉からひょっこりと顔を覗かせたのは、恭也の母――高町桃子だった。

「……あら、恭也。帰ってきてたの?」
「昨日の晩の便で」

 しごくあっさりとしたそれが、仕事から帰ってきた息子への第一声だった。無表情と笑顔全開といった正反対の親子の表情を見て、桃子はコロコロと鈴が鳴るように笑った。
 彼女には清祥の中等部に通う一子がいるというのに、とてつもなく若々しいままだった。やりがいのある仕事があるからだろうか。一つ一つの仕草がとても可愛らしく、しかもそれが決して嫌味になっていない。
 初対面の人間が、彼女がおばあちゃんと呼ばれる身分だと察するのは不可能に近いだろう。童顔とあいまって、ともすれば幼げにすら見えるから、女性は不思議だ。

「良かったわね、雫ちゃん。おとーさんが早く帰ってきてくれて」

 「うん」と元気な声が返ってくるのを聞いて、桃子は心底楽しそうにに笑った。恭也は首の後あたりがくすぐったくなるのを抑えられない。母からの呼称――おとーさんという響きには、いまだ慣れない。その呼称が、自分を指すものだと思えない。
 高町恭也にとって、“おとーさん”という呼称が指す者は、今も昔もたった一人。

「美由希たちは?」
「三人揃って、お出掛けですって。前々からの約束みたいで渋ってたけど、雫ちゃんに諭されて泣く泣く出かけていったわ」

 そのときの光景を思い出すと、吹きだしそうになる。妙齢の美女たちが、幼児に「約束は守らないけません」なんて言われてるのは、いくらなんでも高町家くらいなものだろう。晶やレンからは、“プチなのは”なんて呼ばれてるくらいだし。
 
「で、どう? フィアッセ、元気そうだった?」
「すこしハードなスケジュールだったから、疲れていたようだったけれど。大きな病気はしてなかった」
「……いまや、“光の歌姫”だもんね。お仕事忙しいのも仕方ないのかしら」

 桃子は横目で、居間がある空間を盗み見た。すこし前まであのソファーに座り、TVを熱心に見ていたもう一人の娘のような存在の姿は、もうない。流暢な日本語で、なのはとおしゃべりする、やさしげなお姉さんは、いない。一緒の職場で働いていた彼女は、いまや皆が知るところになった、クリステアの名を背負う一流のうたうたい。
 帰ってこない、なんてことがないのは判ってる。たまに顔を見せに来てくれる。忙しい最中でも、気にかけてTELをしてくれている。それでも、ふとした瞬間に寂しさを覚えてしまうのは、きっと仕方のないこと。

 息子も所帯を持ち、家から巣立ってしまった。誇らしく思うと同時に、物足りなさを感じることも、しばしば。美由希も大学にはいって家を離れることが多くなったし、晶やレンだって成長につれて付き合いが悪くなっている。桃子の暇に付き合ってくれるのは、なのはと雫くらいなもの。

 桃子かーさんとしては、やっぱり、すこし寂しい。子離れできてないのかしら、なんて悩むのはほとんど日常だ。

「ねぇ、恭也? もうひとりくらい、子供を作る予定、ないの?」

 だから、今日も聞いてしまうのだった。





 月村忍の朝は、おおむね遅い。日が昇りきった後しばらくしてから、ようやく起き出してくる。良人たる恭也の早起き習慣とは、まさに正反対。彼ほどとは言わないが、せめて一般人の生活スタイルに沿ってもらいたい、とは彼女の忠実な侍女の弁。
 そんな彼女は寝起きも悪い。覚醒しても、十数分は何もできない。低血圧ということもおおいに関係しているだろうがが、何より毎度の夜更かしが主な原因といってよいだろう。不規則な生活は、血の巡りも悪くする。
 今日もまた彼女は、ぼさぼさ髪のまま、寝ぼけ眼で中空をポーっとみつめている。寝乱れた胸元と焦点の定まらない胡乱な視線。扇情的な媚態にも見えるから、元の良い女性は得だ。しばらくしてから、彼女は目元をゴシゴシと擦った。どうやら、本覚醒がちかいようだった。
 そこへ、ココンと規則正しく几帳面にノックされた。ついで、精密に彫刻をほどこされた重厚な木製扉が開かれる。

「忍さま、失礼致します」

 タイミングよく現われたのは、キッチリとメイドの正装を着込んだノエル。忍に仕えて、十のときを軽く超えた彼女には、女主人の起床時を見破るなど、朝飯前。そんじょそこらの凡メイドとは年季が違う。のえるいずぱーふぇくつめいどさん。

「あふぅ……。おはよー、ノエル」

 大口を開けて、欠伸。妙齢の婦人として、その仕草はどうだろうかと思わないでもなかったが、そんなあけすけな態度も、彼女にはじつによく似合っていた。

「おはようございます、忍さま。お食事の用意はすでに整っております」
「ん〜……今朝はちょっと、食欲ないから。おやふみなさーい……」

 パフとベッドへ直行。ずぼらな人類がいまだに勝てない至高の快楽――朝の二度寝へとしのぶまっしぐら。しかし、そうは問屋がおろさない。あくまで主人に忠実なノエル。ただし、忠実と命令どおりがイコールで結べるわけではない。

「忍お嬢さま」

 あくまで不規則不健康な生活を送ろうとする主人を諌めるため、ノエルは再度、呼びかける。しかし、敵もさる者。眠りに入ろうとする忍を、そんじょそこらの起こし方で止められない。ノエルは、一歩ベッドへと踏み出し、近距離にて呼びかける。

「忍お嬢さま」
「…………んもぅ、なによ、ノエ……る、ってうわっひゃう!」

 薄めで見た向こう。狭い視界いっぱいに、ノエるの超至近距離ドアップの映像があった。忍がすっとんきょうな声を出したのも、むべなるかな。

「朝食は健康の第一歩です。キチンと摂取するべきかと」
「わかった、わかった、わかりました。起きますよぅ」

 お手上げと降参する。最近、忍の朝の勝率は目に見えて、連敗続きだった。一時期の阪神タイ○ースなんか目じゃないぜっ、なんて勢いづくほどに。それもこれも、恭也の口煩さがノエルに感化してるからだ、と忍は頬ふくらませて拗ねる。
 今夜もたっぷり搾りとってやるんだからっと、夫婦のベッドに誓った忍だった。



「あー、でも食欲ないのはホント。ジュースだけで充分だよ」
「輸血パックも揃えてありますが?」

 主の着替えを手伝いながら、事務的に受け答えをしていく。とは言うものの、それは決してビジネスライク然としている訳ではなくて、むしろ繋がりの深い二人がプロフェッショナルに
徹しているような印象があった。つまりは、仲良しさんということ。

「うーん……恭也は?」
「雫さまをお迎えに」
「恭也は雫にとられちゃったか……。じゃ、イイや。パックの美味しくないし、我慢する」

 心底、残念そうに肩を落とした。忍にとって恭也の血液は、“たぐい稀なる美味なごはん”と同義語だ。恭也の血と比べれば、輸血用のパックに入った血液など……月とスッポン。一度、どうして美味しく感じるのか、考えてみたことがある。
 鮮度? それも正直ある。恭也の首筋に牙をつきたてて飲むのは、新鮮そのものといった感じですごく美味しい。でも、それだけでは、誰の血液でも美味しく感じることある。そんな事を考えたくもなかった。
 きっと、恭也だから。急所を曝け出してでも、血液を分け与えてくれる――大切なヒトだから。すごく美味しく感じるのだ。これが忍の出した結論だった。

 だから、恭也が直に分けてくれる血液じゃないと意味がない。

「では、先にご用意させていただきます」
「うん、頼んだよ」
「……忍お嬢さま。くれぐれも二度寝などされないよう」

 図星を指されて、肩をすくめた。最近のノエルは驚くほど、良いカンをしている。朝の忍が予測しやすい単純な行動をとっているのか。それとも、ノエルの演算が凄まじいのか。前者の可能性が高そうだった。
 気まずげな主の表情を見て、得心いったかのように、辞する。ドアへ向かう際、ノエルの身体が崩れた。どうやら、足を踏みそこねえたらしい。彼女らしからぬ失敗だった。

「どしたの、ノエル? 今ちょっと変じゃなかった?」
「……データ処理に戸惑ったため、バランサーが機能しなかったかと思われます」
「ねぇ、キチンと見たげよっか?」

 心配そうに、ノエルの顔を覗き込む。脳裏に浮かぶのは、眠りつづけるノエルの姿。もう、なかなか起きないノエルの寝顔をみつづける生活は、嫌だったから。

「いえ。自己診断では、問題ありません。お手を煩わせる必要はないかと」
「そっか。必要があったら、言ってね」
「……心得ました。ご配慮、感謝いたします」

 一礼して、ノエルは扉の向こうへと去っていった。名残惜しげに、去っていくメイドの姿を見つめ続けていた。完全に姿が扉の向こうに消えて、ようやく視線を外す。もう一度、ちいさな欠伸をのんびりとひとつして、頭を掻いた。そのまま、指で髪を梳いていく。

「あぁ、もう!」 

 雨が降る前兆なのか。湿気をふくんだ髪はベトつき、不快感しかもたらさなかった。今朝は丁寧にブローし、整える必要がありそうだった。
 








 昼間から振り続けている雨の影は、見えない。ただ、降りしきる音がガラス越しに聞こえてくるだけ。世界に闇の幕が下りていた。時計の針がちょうど二回転し、日付ももはや変わっていた。今日も忙しない一日だったな……もう、昨日か。昨日という一日を思いおこす彼女の表情には、微笑が添えられていた。
 最近、富に思う。時がたつのは早いな、と。一人より二人、二人より、三人、三人より……。賑やかだとそれに比例して、時がたつのも気がする。一人でいた過去を思い返すことが少なくなりつつあるのを、実感していた。
 改めて、部屋を見渡した。広い寝室には、彼女の私物でないモノが点在している。それが、だっだぴろいだけだった部屋を奇妙に明るくしている。ぬくもりがすぐ近くにあることが、例えようもなく嬉しかった。
 カチャリと静かな音とともに、扉が開かれた。忍は身動ぎもしない。誰が何のために、なんて詮索しなくても理解しているから。この時間に、この部屋に帰ってくるのは、たった一人だけなのだから。

「雫はもう寝たの?」
「あぁ」

 ドサリと、ベッドが深く沈みこむ。わざわざ空けておいたスペースに、予定通り腰を下ろしてくれた。そんな何気ない思考の一致に、嬉しくなる。

「……ただ、ノエルが捕まった」
「無理ないよ。雫の抱きしめ癖は、赤ん坊のころからだし」

 苦笑ともほほえみとも取れる、淡い笑顔を浮かべた。目覚めてから、ノエルは表情が豊かになったように思う。困惑した顔を見られるなんて、前からは想像がつかなかった。それが自分の娘の所業だと思うと、誇らしいやら情けないやら同情するやら、複雑な面持ちになってしまう。

「……ね、恭也。話して?」
「何を?」
「何でもいいよ。仕事中の話でも、旅先できいた話でも……何でもいい。とにかくおはなし、しよ」

 シーツの上に転がって、上目づかいで恭也の目をみつめた。雫とノエルには悪いが、今夜は恭也を独占したい。雫は昼間たくさん甘えられたのだし、ノエルはノエルで朝にたっぷり会話できたらしい。夜ぐらい、良妻賢母の鏡たる忍ちゃんが独占できない理由はない。
 すでに、理論武装は整っていた。

「……そうだな。じゃぁ、同僚の話でもするか?」
「聞かせて。どんなヒトと仕事してるのか、知りたい」

 枕を腕でつよく抱きしめ、身を乗り出す。会えなかった時間を取り戻すよう、意識を傾けていく。

「……同僚に、面白い男が一人いて、な。“幽霊と会って会話するのが俺の夢だ”と酒に酔っては吹聴するんだ。それで、ついた渾名が神秘狂いオカルトマニア。つけられた本人は不満らしいがな」

 相手を思い出してか、心底、楽しげに話す。忍はそんな彼を見て、嫉妬してしまうのを抑えられない。いささか早口で、彼の意識をこちらに向けようと躍起になる。

「オカルトっていうと……Oパーツとか、UMAとか?」
「いや、そうじゃない。……ミステリースポットとか言っていたか。幽霊がよく目撃されると評判な場所を、休日によく回るんだそうだ。それこそ国を問わず、な」

 恭也は、忍の瞳を見すえて語る。だというのに、熱っぽさが感じられないのがすこし彼女には物足りない。場所はおあつらえむきな寝室。傍らには、愛を語らえるこんな美女。朴念仁にもほどがある、というのだ。
 すこしづつ、彼女の視線に険が混じっていく。危険な兆候だった。

「ひとりで?」
「あぁ。物好きなことに、な。前回の休暇でドイツの郊外にまで足を伸ばしたと、嬉しそうに話をしていた」

 だが、彼女は気付いていない。彼が饒舌に語るのは、心を許した親しい人間に他ならないことに。何でもない話をすることによって変化する彼女の瞳を、これ以上なく楽しんでいることに気付いていない。

「変なヒトだね。でも仲イイんだ?」
「……かもな。だが、記念写真までみせられて話されるのは勘弁して欲しい」

 酒精混じりの吐息をはいて、熱心に語りかける同僚を思い出したのか。恭也は渋面をつくっていた。剣をとれば、敵なしと思える腕前を持つ彼だったが、アルコールにはめっぽう弱い。概して、この世は酔っ払ったもの勝ちの風潮が蔓延している。下戸には、いささか住みにくい世界だった。

「恭也にも、さ。逢いたいって思う人……いる?」
「もう一度、会ってちゃんと話したい人なら、いるな」
「……誰って、聞いてもいい?」

 疑問に、わずかなほほえみで返した。柔らかな拒絶が、ほんの少し胸を裂いた。1から知りたいと願うのは、やはり傲慢なのだろうか。過去すべてを知りたいと考えるのは、狭量なのだろうか。それは、女にしかない性なのだろうか。
 何も語らない彼をただ、一心にみつめた。

「…………とーさん、だ」

 これで終わりといわんばかりに、シーツにその身を横たえた。瞳は閉じられ、完全に就寝する心積もりなのだろう。語られた言葉は少ないけれど、満足した。彼が心砕いてくれたことに、例えようもない喜びを感じていた。
 白い頬がピンク色に染まる。忍は、まだ当初の目的を果たしていない。このまま、二人して仲良く眠れば、奇麗に終わるのだろうが。それはそれ、これはこれ、という奴だ。このまま、安穏と眠らせるはずがなかった。

「……ねぇ、きょーや」

 ストロベリーのような甘ったるい声で囁く。鍛錬で歪な形に変形した耳元に唇をよせ、ともすればそのまま甘噛みしてしまいそうな、恋人同士の睦言の距離。しっとりと濡れた女の指が、かたい顎をなぞっていく。どこまでも、挑発していた。さすがは、若夫婦。
 そのまま吐息(甘味材含有量82%)を流し込まれて、ピクリと身体が震えた。ここまでされて、ようやく恭也も気付いたらしい。愛妻が何を望んでいるのかを。それは奇しくも、母が望んでいた未来へと繋がる行為だった。

「子猫だけじゃなくて、母猫も可愛がって欲しいんだよ」

 ペロりと。突き出した真赤な舌で、ほほを一舐めする。背筋を熱くて冷たい何かが駆け抜けていった。だが、その程度で鉄の精神は折れない。

「……ね。きょーや」
「……」

 さらに甘さを増した言葉が、耳朶にふれた。枕に顔を押し付け、極力聴こえないよう努力する。瞳も閉じて、媚態を見ないよう誘惑を拒絶する。行為自体嫌いではない。腕の中で甘える忍を見るのも好きなほうだろう。だが、それだけを連日連夜、致すのはどうかと思うのだ。

「ねぇーってば。……もう! そっちがその気なら……」

 痺れを切らして、動いた。すこしつり上がり気味なアーモンド形の瞳を、笑いの形に固定させ、しなやかに肢体をよせる。猫手に丸めた指で持って、カリカリカリカリと、シャツ越しに胸板を引っかいていく。ピンク色の健康的な唇から漏れるのは、やはり猫を模した甘えた鳴き声。

 にゃーぉ。

 その一連コンポに、鉄の精神に罅が入った。その後のことは言うまでもないだろう。ただ、彼女の策略勝ちだったと述べるにとどめておこう。



















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