それは、ちいさな奇跡。


 はたはたと風に揺られて、白い布きれが飛んでいく。それを、涙目になりながら必死に追いかける幼い少女が一人。いつか、どこかで。見守っていた懐かしき面影をもった少女が一人、四苦八苦していった。

「距離……24、25。……風向き参考、照準セット」

 思わず、すべての要素を洗い出し、演算回路を加速させる。左腕を前に突き出す。肩・肘関節部をロック、今このとき左上腕は砲身へと変化する。
 きまぐれな風が目標を不規則に動かしていた。目覚めたばかりにしては、すこし難易度が高かった。軌道予測に最大限の力をふりわける。


 見守りつづけた人たちと、想われつづけたヒトの織りなした奇跡のお話。


 目標物の軌道予測の完了を確認。目標物との距離を補正。炸薬カートリッジを確認……満載フルロード。照準の微調整に移行……。
 珍しく外からわかるほど熱心に、熱に浮かされたように作業を続けていく。まるで、その作業はきわめて崇高な祭祀であるかのごとく。まるで、それら一連の動作が人類の偉業に匹敵するがごとく。


 その瞳にうつる世界は、あの日のまま変わらず続いていて。


「ファイエル」

 静かな呟きとともに、こぶしが飛翔する。照準の調整は、惚れ惚れするほど完璧。宙を舞う左手は正確に、白い布切れをつかむことに成功していた。
 確かな感触をうけて、内蔵されたウィンカーのスイッチを入れる。空に放たれた拳をそのワイヤーごと巻き取っていく。カチリと音たてて、拳と手首が重なりあう。そこに、一筋の傷痕すらみつけることはできなかった。


 瞳に映るすべてのものが、輝かしく思えた。


 ふりかえれば、さきほどの少女が驚きもあらわに呆けていた。口をポカンと大きくひらき、どんぐりまなこはめいっぱい見開かれている。
 はてさて、どのように語りかければいいものか。下手をうてば少女は今にも泣き出しそうな気配すらあった。思いおこせば、今現在に至るまでの一生で、幼い少女と会話する機会など数えるほどしかない。
 迷いためらうなかで、真っ先に聞かなければならなかった大事なことに気付く。その容貌から勝手に判断していたが、他人の空似とも限らない。

「このお宅のお嬢さまですか?」

 強張りもためらいも、消えていた。その場にしゃがみ込み、フリルのついたハンカチを差し出す。ノエルは忍によく似た容姿をもつ少女へと、せいいっぱいの笑みをむけた。冬の日溜りのようなほほえみだった。
 少女はキョトンとしたまま、ノエルの顔とハンカチ交互に視線をうつしながら、ジッと見返す。無垢な瞳と視線がかち合った。いつしか、泣きだす兆候はどこかに消え失せていた。数秒後、少女はあどけない表情で、コクンと頷いた。

 ちっちゃな手が、差し出したハンカチを受けとる。時をほぼ同じくして、背後から近づいてくる足音があった。ノエルが慣れ親しんだリズムの足運び。……心当たりがあった。
 背後からきた人物は、ノエルの後姿を見て、息を飲んだらしい。少女が足音に気付き、ハンカチを振り回し、人影へと飛びこんでいく。少女の満面の笑みを、メモリーに刻み付ける。大事な思い出が増えた。
 それから、ノエルはゆっくりと立ち上がり、万感の想いを込めて振りかえる。眼差しに、やさしいほほえみをたたえて。

 彼女を、家族はやさしく迎え入れてくれた。






 海鳴市は適度に都会であり、ほどよく田舎な一地方都市だった。すこし郊外にはいれば緑が多くで迎えてくれ、遊ぼうと思えば少ないながらも選択肢がある。お年寄りから若者にもやさしい平凡な土地だった。
 だから、だろうか。意外に、海鳴市への移住者は後をたたない。一時の赴任先として訪れたのが海鳴の水が合い、そのまま永住するのだ。同様に、わざわざ海鳴の教育機関へと転校してくる学生も、また多い。スポーツに力を入れている学校も多く、遠くは鹿児島、沖縄などから特待生を迎え入れている。従ってそこらの道ですれちがった若者が、実はその手の業界では有名人であり全国レベルの猛者でした、なんてことも珍しくない。

 その程度の事件ならば充分、自慢話のひとつとして話せるだろう。海鳴市は地方都市然としたおおきさ、首都には到底及ばない人口密度の割りに、奇怪な噂話に困らない。中には、子供ですら喋るのに躊躇うような荒唐無稽な噂話だって数多くある。


 曰く、毎朝毎朝、桜台のダウンヒルをミントグリーンの自転車が、チューンナップされたカーマニアの四輪すら追い抜いていった。しかも二人乗りで。

 曰く、いまは取り壊された旧校舎で唄い踊っていた幽霊の少女がいた。

 曰く、魔法をあつかえる少女が、世界の敵と戦うために愛用の杖を持って日夜出没する。


 このような話題がほんの一例にしか過ぎないところが、海鳴市における噂話のでたらめさ加減を立証しているともいえよう。そんな混沌もいいところの話題には事欠いたことない海鳴だったが、ホンモノもその中に埋もれていた。

 光の歌姫がアルバイトしていた店があるらしいという噂もそうだったし、長身のメイドさんが勤務している洋館があるらしいという噂も、真贋、玉石入り混じった状況下にあって、真とみなされるひとつだった。

 前者の噂はキチンと店名まで判明しており、しかも確認も取れている。まじりっけなしの真実だった。ここまでいくと、風説というよりも情報といったほうが正確だろう。それに、件の店“翠屋”といえば、甘味好きに名の知れた屈指の名店でもある。
 トラットリアとパティスリーをあわせたような印象の喫茶店が、翠屋だ。女性もさることながら男性客からの人気も高い。ただし、メインターゲットにうら若き女性を意識しているのを忘れてはいけない。味は申し分ない。ただ、成人男性の食欲には、なまじっか味が良いぶん、その量が不満になることもしばしば。

 そのような諸事情もあって、翠屋のお奨めにケーキセットを強く押す。アントルメもさることながら、本場じこみの作法で丁寧に淹れられた各種紅茶も絶品。口直しに一口呑めば、甘味がもう一品が欲しくなるという、ダイエット中の婦女子に大敵な味わい深さ。それ全般を担当していたのが、件の人物――光の歌姫だった。
 現在、光の歌姫の姿を翠屋で見ることはかなわないが、紅茶の味はおおむね損なわれていない。ゆったりとした雰囲気を愉しみたいのならば、ぜひ訪れるべきだ。
 
 もしも家への手土産にしたいならば、シュー・ア・ラ・クレムが良いだろう。学生でも買える手頃な値段ながら、味は抜群。店長はその味で旦那さんの心を射止めたという噂まであるほどの美味しさ。海鳴市民にとって翠屋のシューセットといえば、お土産やお返しの定番だったりする。

 翠屋には、多種多様な人物が来店する。噂にあったホンモノのメイドさんだって、お土産を買いにフラリと来たりもするのだ。侮りがたし、翠屋。





 海鳴市の繁華街とは正反対の方角に足を運ぶと、住宅街がある。それすらも抜けて隆宮市に入り、しばらく歩を進めると一軒の屋敷が見えてくる。日本の住宅風景とは相容れない、万人が想像するような洋館が。
 おそらく、すぐに気付くだろう。所有している土地の面積が広すぎて、赤レンガ造りの外壁がこの上なく目立つのだ。その割りに派手という印象はあまりない。周囲の景色とできるだけ融和させようという意図を孕んだ佇まいは洗練されたセンスを感じさせ、けばけばしさを感じさせなかった。


 その広大な月村邸の一室で、彼女は眠っている。長身の彼女に合わせてか、長い背もたれの椅子に腰掛けて、姿勢よく座ったまま眠りについている。それが彼女の就寝スタイルだった。一見すれば、人が眠るような格好にはとうてい見えない。だが、たしかに彼女はその貝のような美しい瞼をとじ、眠りの世界にまどろんでいた。

 その一室は彼女だけに与えられたものだ。彼女の自室と呼んで、さしつかえないだろう。初めて訪れた者が一目みて感じるのはおそらく、殺風景という印象だろう。造りが屋敷の一室と変わらず装飾に凝っているから、余計にそう思えるのかもしれない。いや、それだけではなかろう。
 果たして本当にココに人が住んでいるのか、と見紛うほど物が少ないのだ。寝具もなければ娯楽道具の一つもなく、備え付けられた本棚や収納箱には申し訳程度に物が納められているのみ。広々とした部屋の中で、大きな姿見だけがどこか浮いていた。これでは最低限の生活を送るのにすら、不自由するだろう。
 だが、そうは言っても彼女がココを自室として使っているのは事実であり、現に彼女は就寝場所として眠りについている。……自宅を寝るだけの場所と広言してはばからない人種もいるという。彼女もそれと同じなのかもしれない。


 覚醒する予兆であろうか、ピクリとまつ毛が震えた。ほどなく瞼がゆっくりとこじ開けられていく。半分、開きったそこからのぞくのは薄いバーミリオンの瞳。その神秘的な瞳でみつめられれば、世の男性諸氏は恋に陥るだろう。黄金率で構成された美貌をもつ彼女の魅力的な要素の一つが、瞳だと自信をもって言える。もっとも覚醒途中で虚ろなのがマイナスといえばマイナスだろうが。

「コンデンサー充電……完了。OS起動…………。クラスターチェック……ノープロブレム」

 ふっくらとした桜色の唇からこぼれたのは、無機質な言葉の羅列だった。その姿は異様異質なものであり、異常そのものだった。彼女の外見は人とさして変わらず、クスリとも笑わない態度から冗談心から為したものとも思えない。では?

 彼女の正体、それは夜の一族と呼称されるものたちが作り出した自動人形。今では失われた技術を用い、その反応は人間そのものとなんら変わらない。エーデリッヒ式・最後期型、シリアルナンバー1224。再起動させてくれた主がくれた名は、シリアルナンバーと主の手に渡った日にちなんで……ノエル。この時代に在り得ざる神秘――それが彼女だった。



 ギシリと音をたてて椅子から身を起こした。起動を果たした彼女は迷いのない素振りで備え付けのクローゼットへと向かう。主とは違い彼女は低血圧とは縁がなく、その足取りは軽い。起きぬけだというのに活動的なのは、彼女が人ならざる身だからか、それとも永年の習慣からか。どちらにせよ、自分の職務を果たすべく行動をおこした。クローゼットの観音開きをあけ、仕事着を取り出していく。
 寝巻きとして使用していたカッターシャツのボタンを外していくと、豊かな胸が現われた。身動ぎに合わせて上下に揺れるその乳房は人の手によるものとは到底、思えない。上半身が露になれば、次にシンプルなジーンズを脱いでいく。丁寧に仕立てられた薄紫色のアンダーは美貌とあいまって、気高い品位を感じさせる。下着のみの半裸になると、身体のラインがとても美しいことに気付く。異性からは垂涎の的、同性からは嫉妬の対象になろうセクシーなボディだった。

 美の女神もかくや、という肢体を彼女は仕事着へと納めていく。ロングスリーブのワンピースは紺色。手元と襟元には白いフリルがあり、シンプルなデザインに華を供えている。上から少々、大仰なほどフリルがつけられた純白のエプロンを羽織り、襟元のフリルを通すように紅いリボンを結ぶ。締めとして、アイロンのきいたホワイトプリムをつける。
 一応の用意が整った彼女は、部屋の隅に置かれた姿見の前に移動する。大きな鏡に映っているのは、どこから見ても立派なメイド。首もとのリボンは曲がっていないか、ホワイトプリムはうまく結べているか、身だしなみを入念にチェックしていく。

 コレが自室での朝の日課だった。彼女は自分の仕事に誇りをもっている。仕える、ということにたいし喜びがあった。今日も一日のはじまりだ。
 扉を開ける前に、ふと顔だけを窓の外へと向けた。ガラスの向こう側では緑と青、それに付け加えられたかのように白が顔を覗かせていた。変わらない日常、変わらない平凡な世界。彼女が望む世界がここにはあった。




 まず、まっさきにむかうのは食堂。すこし前だと主へ起床を呼びかける事をいの一番にしていたのだが、その役目は絶えて久しい。ノエルが眠りについていた間に、残された人たちにもそれなりの役割分担ができたようだった。すなわち恭也が鍛錬のために早朝に起床し、終えた後ついでに忍を起こすというルーチンワークが。それでなくても、主たちはいまだ若い夫婦。ノエルに知られたくない事だって、あるだろう。夫婦の営みに文句をつける気は更々無かった。ただ、すこしだけ寂しさが胸中に残っていたものの。

 食堂へと向かう途中の廊下で、屋敷の住人と出会った。まだ明けきらない内だというのに、とんでもなく早起きだ。本能が彼女を目覚めさせたのかもしれない。件の人物は、聞くものをほのぼのとさせる声でノエルに呼びかけた。ノエルも彼女に向けて、挨拶をする。

「ねこさん、おはようございます」

 にゃおーんと一鳴き。ご飯ご飯とでも言いたげに、身体をすりよせてくる。その催促もノエルにとっては慣れたもの。後首をつかんで、自身の肩に乗せる。

「すみません。お食事はいつもの通り、忍さまと恭也さまが食べられてからとなります。少々、お待ちいただけますか?」

 仕方ないなと、ねこは定位置のノエルの左肩で丸くなる。ねこ的ベストポジションがノエルの肩なのは言うまでもない。同行者を連れて食堂への道をいそぐ。重さを増した体重に、人知れずメインメモリーは過ぎ去った思い出を検索していた。
 整った顔立ちながらやんちゃで活発な子猫は、いつのまにか成猫へと成長していた。長く伸びた6本のひげなど成人猫の貫禄さえ感じさせる。あの肩に乗っかったのかわからない微妙な重さは、もう感じることはない。
 
「にゃぁ?」
「いえ、何でもございません」

 自動人形と猫。何もかも違う彼女たちは、しかし親友と言えるほどに仲がよかった。種族や言語を超えての会話すら見事、成立させるほどに。





 途中の食堂でねこを降ろし、ノエルはキッチンへと足を踏み入れた。主の趣味で最新の電化製品が導入されたキッチンは、彼女の聖域と呼んでもさしつかえない。一時、やんごとなき事情にてあけわたしたものの、目覚めてからは守り通している。食材の有無はおろか、一般家庭ではあまり使われないであろう調理器具の特殊な機能すら把握している。彼女の優秀なメモリーは賞味期限も見逃さないし、忘れることもない。
 それでも冷蔵庫の扉をひらいて自らの瞳で鮮度を確認するのは、食材を有効利用するためであった。鮮度が予想以上に落ちていた場合や、残った食材で可能なメニューを検索するのに調度よかった。そんな主婦みたいなワザは忍の叔母の友人たちに学んだことだ。彼女らは、ノエルをして驚かせるほど家事に精通している。かく言うノエルも料理の腕前は悪くない。それこそ並の料理店を凌駕する腕前を誇っていた。それでも勝てるとは思えないのは知己が達人揃いだから、なのだろう。その存在からして精巧な技術をもっているノエルだったが、研鑚の余地は充分、残されていた。
 念入りに中を確認しながら、朝食メニューを組み立てていく。忍は洋食が好みだが、朝はあまりとらない。恭也ともう一人は和食を好む。とすれば、主には悪いが残った食材で可能な料理は……具沢山の味噌汁、ほかほかご飯、アジの開き、副食としてもう一品。そんなところか。驚くほど素早く今朝の献立を決めていく。
 
 

 炊飯器の電源を入れ、その合間にお湯を鍋とケトルで沸かす。鍋は味噌汁用、出汁は炒子で
とっていく。ケトルは飲み物用のためだ。恭也は必ずと言っていいほど、食後に熱いお茶を飲む。コレを忘れると、主人の大切な一日のはじまりが台無しになってしまう。主人たちにストレスなく過ごしていただくのは、メイドの本望だ。

 副食は、きゅうりの叩き白ゴマ添えなどがいいだろうか。和食で統一されるし、なにより白ゴマは身体に良いといわれている。香りも良いし、さっぱりした味付けで胃ももたれないだろう。冷蔵庫からきゅうりをとりだしていると、パタパタと駈け寄ってくる足音が聞こえた。

「あ……ノエルさん、おはようございます。朝、早いんですね」
「おはようございます。普段どおりだと思われますが……」

 食堂とキッチンとの境目の扉から、顔を覗かせたのは那美だった。しかし、ただの神咲那美ではない。その身をノエルと同タイプのメイド服に身を包んだ、神咲那美メイド仕様とでも言うべきか。
 イレインとの戦闘が行われた日から、ノエルは眠り続けていた。ハードは忍の手によって、修理されたがソフト……いや、その魂が疲弊したらしい。彼女は眠り姫よろしくずっと目覚めぬままいた。そんな彼女を欠いた日々でも時は流れ続ける。
 掃除や選択は各々の采配で何とかできるとしても食事は問題だった。料理できるというにははばかられる恭也と、調理という手段自体あまりした事のない忍。育った家庭環境のせいで舌の肥えた二人にデリバリーサービスや外食で過ごし続けるというのは苦痛であったし、かといって食事の為だけに高町家の“炎の料理人”たちを呼び寄せるわけにもいかない。
 仕方なしに自炊の方法を二人揃って学んでいった。幸い師には事欠かなかった上に、鋭敏な舌があった。日頃の手練の賜物か、恭也の包丁さばきは上達すさまじく。メニューのバリエーションが日々、増えていったのは言うまでもない。

 だが、そこが思わぬ落とし穴だったのだ。冬が終って初春になろうという時期になっても、ノエルは目覚めなかった。一般的に大学生活は楽だといわれている。恭也も忍もそれと承知していて、学業の他に目標があった。恭也はさらなる剣の鍛錬と父の後姿を追うための準備。忍はノエルのメンテナンスと自動人形全般の研究。
 それらを学業の隙間でこなすのは、思いのほか困難な作業だった。学生生活を疎かにするわけにはいかず、自然、後に回されるのは日常の雑多な仕事たち。月村邸が徐々に荒廃していくのは誰の目にも明らかだった。
 コレではいけないと忍が思い立って、使用人を新たに雇うことを決めた。それが那美がメイドにいたるきっかけ。調理に関してはいまひとつといった辺りだが、掃除や洗濯は申し分ない。何より、隠さなければならない秘密を抱える二人にとって、知ったうえで友人でいてくれる那美の存在は貴重だった。


「うわぁ……いい匂い。わたし、お腹すいちゃいました」
「……しばしお待ちください。もう少しで出来上がります」

 悪戯げに微笑む那美に、ノエルはそれとわからぬほどかすかに表情を柔らかくさせた。年齢的には充分大人を感じさせる彼女なのに、こうした動作はひどく少女じみている。それがまた魅力でもあった。周囲の人間を微笑ませる彼女の雰囲気は、まちがいなく美徳の範疇に入るだろう。
 水が合ったのか。那美は今もこうして、月村邸でメイドを勤めてくれている。彼女自身にだって、表に出せない仕事が山のようにはいっているだろうに。

「出来ました。那美さん、食器の用意と、盛り付けをお願いできますでしょうか?」
「あ、はい。……はい。わかりました。こっちは任せてください」

 味噌のかぐわしい匂いに見惚れつつも、那美は察した。いまだ独身継続中の身には、当主夫妻を起こしにいくのはいささか刺激的すぎる。それがほのかな淡い感情を持っていた先輩相手だと、尚更だ。ノエルは粛々とキッチンを出た。





 おおきな館の長い廊下をすすむ。慣れた足取りに迷いのはいる隙間はない。目的だけを一心に据えて、ひたすらに歩む彼女の耳に、聞き慣れぬ……あるいは聞き慣れた音が聞こえた。その時点で両足が停止したのに、果たして彼女は気付いていたかどうか。かすかな微笑が浮かんでいたことにも、おそらくは気付いてはいない。
 窓越しからでも聴こえる、鋭い呼吸音と何かを振るい空気を切り裂く音。今日もまた、主が鍛錬を行っている。幾許かの逡巡のち、ノエルはその進路を庭へと変更した。



 月村邸は広大な敷地面積を誇る。シックな洋館をこれまたウェスタンスタイルの塀が取り囲み、その隙間を自然の緑で埋めている。日本の住宅事情を考慮すれば贅沢としかとれないスペースの使い方だが、困ったことに嫌味になっていないから不思議だ。設計した者の、あるいは当主のセンスのよさが現われているのかもしれない。
 その広大な庭園の一角に人影があった。年の頃は……20代中盤から30代前後といったあたりだろうか。初見の印象だけでいうならば、髭の一本すらない顔つきは幼くみえる。しかし、顎のラインはすっきりとしており、大人びているといえよう。さらに付け加えるならば、彼の醸しだす空気は子供が出せるようなものではない。彼を語るさまざまな要素が複雑に絡まりあい、その重ねた年月を悟らせてくれない。
 早朝の澄んだ空気を彼は切り裂いていく。全体的に黒い、そんな印象を与える男だった。おそらく暗い単色のスウェットを着ているからだろう。濡れ烏のような黒髪、黒い瞳、そして中肉中背。典型的なモンゴロイドの特徴を備えている。ようは、どこにでもいそうな普通の青年だった。
 ともすれば、怜悧な印象すらあたえるほどに彼の顔立ちは整っている。だが、目立つタイプかと問われれば、首を傾げざるおえない。周囲の空気と同化して、その存在感がうやむやになっている。はっきりとしない彼の全体像で、鍛えられた肉体と、その腕に持った獲物だけがどうしようもなく現実味を露にしていた。
 半袖の下から覗く二の腕にはしっかりと筋肉がついている。背筋も服の上からでもわかるように浮き上がっており、細身ながら逞しい。おそらく全身がしなやかな筋肉で覆われているのだろう。
 そのしなやかな筋肉は、緊張感を保ったまま静止していた、両腕には、彼の納めた武術の基本武装である二振りの小太刀が、切っ先を宙に向けたまま存在した。
 静寂を壊すように彼が動く。腰を捻り、肩と連動し、無構の状態から一気に袈裟から切り上げの二連。そして再び、元の位置――静止状態へと戻る。

「……ふむ」

 今しがた空を切り裂いた自身の技に、満足げに頷いてみせた。懸念していた膝の鈍痛も問題ないレベルに収まっている。これならば、意識化のリミッターを一段階、解除しても構うまい。 ココでいうリミッターとは火事場の馬鹿力のように、筋肉の抑制を意識的にはずすことではない。そのような技が彼の学んだ武術にないわけではないが、すれば主治医やらなんやらから大目玉を喰らってしまう。さすがに何度も何度も整体マッサージという名の拷問を、定期検診以外でしてほしいとは、彼をしても思えなかった。
 ……ようはコンセントレーションアップ。この程度ではどうだろうかと意識を分散させ、探りながらしていた動きを、集中し統一された意思のもと、それ以上のものにする。慣らし運転は終った、そういうことだ。


 瞳がとじられる。彼の微細な挙動に合わせて、周囲の空気が変化した。風が停まり、森はざわめくことを止め、虫は動くことを禁じられる。そして、彼自身の時も止まっていた。その様、さながらメデューサの呪いを受けた人間のよう。ピクリとも動かない。
 だが、彼の停止した時と、その他の止められた時には大きな違いがあった。自身の意思によるものか否か。このちっぽけな空間――否、小世界を支配しているのは、まぎれもなく彼だった。

 
 息の詰まる時間は、そう長くなかった。


 瞼を見開く。そこから現われたのは、先程よりも強い意思を感じさせる黒々とした眼。高純度に精製された剣士の一念は、それだけで神をも殺せるに違いない。現に、彼の微細な動きが、世界に呼吸を取り戻させた。
 風は凪ぎわたり、森は静かな鼓動を伝えはじめ、虫は勝手気ままに鳴く。まるで、彼が束縛をとき、世界に時が刻まれるのを許したかのように。

 納めた鞘から抜刀する。その様、まるで幽玄体の如く。あたかも、鞘から抜かれることこそが自然の理といわんばかりに、その刃金は姿をあらわした。カチャリと、鍔元がかすかな音を立てる。逆手に握られた二刀が、まるではばたく鳳凰の翼のように構えられた。


 またもや時間が停止したか……と思う暇なく彼は動いた。身体をひねり、右の小太刀ですくい上げるように切り上げる。左の一刀は、そのまま一文字に前方を薙ぎ払う。堂に入った見事な二連撃だ。だが、それで終わりではなかった。停止していた時間を取り戻すように、一つ一つが必殺の斬撃を続けていく。一閃、二閃、三閃、四閃…………。
 続くたびに、ボルテージが上がっていく。高まった熱にあてられるように、さらに二振りの小太刀の回転数、鋭さは上がっていく。留まる術をしらないのでは。そんな恐ろしい想像すらスラリと出てき、馴染んでしまう。

「……フッ、ハッ!」

 爆裂するような呼気とともに繰り出されるのは、まさしく戦うために磨かれたすべ――武術。一箇所に留まらず、実践を想定した動きで縦横無尽に駆けめぐる。その身のこなしは控えめにいっても軽やかであり、小太刀といえどそこそこの重量がある二振をまるで重さが存在しないかのように扱う。繰り出す斬撃の一つ一つの音が、これ以上なくその鋭さを証明していた。大気を切り裂くその音だけで、首をすくめたくなる。


 無数の斬撃で創られた、局地的な小型台風。


 そう表現しても、なんら不思議はなかった。すさまじい剣風に枝葉が揺れ、若葉が舞い散る。ゆらりと地面に惹かれたその緑でさえも、大地に辿りつく前に切り刻まれ、形を失った。無数の剣閃がいつ果てることなく、続く。



 ピピピッ、ピピピッ。無粋なアラームが小世界に響きわたった。音に追い立てられるかのように、振るわれていた刀は鞘へと納められる。いまだ続く規則的な機械音。無粋だといわんばかりに、クリップオン式の時計を操作する。ほどなくして、剣による風斬り音も、時計のアラームも聞こえない、清清しい朝の情景が戻ってきた。
 
 鍛え方が違うということなのだろう。あれだけの運動量だというのに、呼吸は十数秒の内に整えられていった。ただ、鍛えられた肉体から白い湯気が出ていることだけが、先程の光景が夢でなかったことを知らせてくれていた。

「恭也さま」
「ん……あぁ、ノエルか、おはよう」

 ふいに掛けられた声に戸惑うことなく、恭也は反応した。振り向いて、メイド姿の彼女に朝の挨拶を返す。鍛錬後の気怠さと見知った者の気配であると判っていたため、その反応は緩慢だった。

「汗をお拭きください」

 事情は重々、承知と言わんばかりに用件のみを伝える。彼女の手元には、ふかふかとした真っ白のタオルが丁寧に畳まれていた。ありがとうと素っ気無く返し、タオルに顔を埋める。洗剤の白い香りが鼻腔をくすぐった。

 顔を上げると、瞳を細めた。今まで感じられなかったぶん、余計にまぶしく思えたらしい。慣らすように、蒼い空を見上げた。

「今日も良い天気になりそうだ」
「この分だと、洗濯物のはやく乾きそうです」

 真横に視線をやると、空を見上げてゆるやかに微笑むノエルの姿があった。自然、恭也の頬も緩んでいく。朝からイイことがあったといわんばかりに。

「ノエルは……いい笑顔をするようになった」
「そうでしょうか、わたしには判断がつきかねます」
「前に言っていただろう? 時々、表情と状況を間違えてしまうことがある、と。いまはそうじゃない」

 二人の会話には、独特の間がある。吐き出す言葉をゆっくりと吟味して、それから表にだすような。彼らの性質が深いところで極めて似通っているから、かもしれない。

「判断できません。ですが……もしそうなのだとしたら、きっと。忍お嬢さまや恭也さま……周りの人々があたたかい笑顔をしているから、ではないでしょうか?」
「……かもしれないな」

 晴天に二人のかすかな微笑みが、影法師のように映りこんでいた。























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