深緑の中にポツンと一粒だけ、ディムグレーの雫が落とされていた。周囲が緑一色なだけに、その存在は否応なしに強調されている。おかげで、道から外れ、迷う心配は無用の長物となっていた。目印と道と地図の三種を照らし合わせて進んでいけばいいのだから、自然と一行の足は早くなる。
 高台から見れば、さぞかし絵になる光景なのだろう。惜しむらくは、大地にへばりつき、仰ぎみるしか許されてない現状だろうか。空から眺められれば、もっと素晴らしい景観が待っているだろうに。
 それにしても、遠くから眺めるその建造物は中々に立派だった。個人所有の屋敷というよりも、もうそれは城というレベルに達しているのではないか。そう素直に思えるほど、森から覗く建物の雰囲気は、勇壮なものがあった。

 だが、近づくにつれて、感じた第一印象が遠目からのものでしかなかったことに気付かされていった。確かだったのはその大きさだけで、館のはなつ雰囲気は、勇壮なんて耳に心地よいものじゃなかった。
 率直にいって、それは廃墟と呼ぶのが正しかった。すでに館としての役目を終え、あとは朽ちるのを待つだけになった元住居が、そこにあるだけ。元々備えていたであろう壮麗さは消えうせ、代わりに威圧感とおどろおどろしさを身につけていた。丁寧に彫られたであろう意匠は色褪せ、風化し、過去の栄華という言葉をつよく刻みつける。
 屋敷跡を見上げていると、思わず忍は呟いていた。

「これは、また……みごとに廃墟だね」

 その言葉どおり、それは館としての役目を果たしているとは言いづらかった。屋根は当の昔に地球の重力に従い、青空を覗かせている。床一面に散らばった瓦礫――おそらく屋根の名残なのだろう――のせいで、思いのほか探索は困難そうだった。
 長年、放置されていたためか。壁という壁に、植物の蔦や根が絡まっている。それだけならば、まだ味のあるという表現ですんだ。
 元は、圧迫感さえあったであろう灰色の石壁は、一部崩れおちていた。残った壁にも所々、黒いシミのような何かが付着しており、鬱屈した空気にさらなる重さを添えていた。なるほど幽霊屋敷ゴーストハウスとは良くいったものだ。

 肩にかけていたスポーツバックを、地面におろす。そのまま恭也は、無言で崩れかけた壁に近付き、黒いシミが浮きでた表面を人差し指でなぞった。指先をざっと見るかぎりでは、砂礫のように細かい粒子が付着しているようだった。そのまま擦りあわせると、黒い粒子は皮膚の上で伸び広がった。

「……これは」

 一瞬、彼の瞳が鋭くなった。それも束の間、忍にかけられた声によって平静を取りもどす。

「ん? 何かあった、恭也?」
「いや……なんでもない。それよりも、見ての通りかなり老朽化しているようだ。崩れるかもしれん。壁には近付かない方が良いだろう」

 彼の言葉どおり、みるからに崩れ落ちそうな箇所が、出入口付近からでもいくつか発見できた。入った途端とまではいかなくても、よりかかったり、手をついただけで崩壊しそうな予兆がそこかしこから感じられた。

「そうだね。ドイツくんだりまできて……崩壊に巻き込まれました―なんて笑い話にもならないよね」

 かくいう彼女の顔は、悪戯げな微笑みをたたえていた。強靭な生命力を持つ夜の一族。常識では計り知れない運動力をもつ御神の剣士。鋼で構成されたボディーをもつ自動人形。この三者ならば、崩壊に巻き込まれたといえど、笑いを誘う土産話に収まるかもしれない。

「私のセンサーならば、注意が必要な箇所は忠告させていただくことができますが?」
「助かる。頼む、ノエル」

 簡素な言葉で、話を締めくくった。

 三人は、慎重に門扉らしき残骸をくぐり抜けていった。やはり、というべきか。内から見える景色も、外から見た印象とさしてかわらなかった。元は壮麗でセンスの良かったであろう装飾が、無数の瓦礫や砂礫によって台無しにされていた。すべて破壊され尽くされたのだったならば、まだマシだったろう。それらの上品な装飾がそれと判る形を保ちつつも、一部破壊されていることに、きわめてつよい無常心を駆り立てられてしまう。一行の足取りも口も重苦しくなってしまった。

「とりあえず、一通り見てまわってるか?」

 提案というよりも確認といった方が正しい口調で、恭也が告げた。否やの声は上がらなかった。



 歩き回って再確認できたのだが、この朽ちた館はやはり、きわめて広かった。間取りでいえば、海鳴にある月村邸と同じぐらいだろうか。立地条件、建てられたおおよその年代を考えれば、家主の所得がちょっとした貴族並みだったことに気付く。
 それだけに探索も容易には終らない。その広さに加えて、室内にすらその根を伸ばした植物や、瓦礫の山が行く手を阻む。ひどいときには、立て付けが悪いドアに足止めされ、歪んだそれを破壊しなくては進めないことさえあった。そうなってくると自然、探索は最低限の簡易なものにならざるおえなかった。

「これは期待はずれ、だったかな」

 元はリビングルームだったであろう一室で、忍がぼやいた。朽ちかけた戸棚や床板を探っていた二人も声につられ、手を休めた。当の本人といえば、今も形を保っていた暖炉に手をかけ、ひんやりとした耐熱レンガを擦っている。

「家系図の一冊……ううん。当主の名前入りの手紙なんかでも残ってれば、この館の持主が一族だったのか、判るのに……全然、残ってないんだもん」
「だが、それだけで一族ではなかったと断言するわけには行かないだろう?」

 どこか幼い響きをふくんだ口調だった。色々と理由を付け足してはいたが、なんてことはない。こういう単純で終わりの見えにくい作業を、喜々として処理できる人間はことのほか少ない。
 しかし、一概に忍を責めることもできまい。苦労して獣道を登り、その上で、荒れ果てた屋敷から雲をつかむような証拠を探せ、といわれたら誰だって、いやになるだろう。少しばかり、甘えたくなるのも無理はない。
 それら諸事情を敏感に察知し、子供を諭すような声色で諌める。ささやかな我侭を聞いてやる器量ぐらい、恭也にもある。

「でもさ、恭也。トラップのひとつもないんだよ? 一族なら排斥されることも考えて、侵入者撃退用の罠の一つや二つ……ありそうなもんだよ」
「……非常に的確な判断かと。今まで発見された“夜の一族”の屋敷では、統計上、罠が設置されている可能性が極めて高かった、というデータも存在します」

 控えめながら、忍の考察を手助けする情報を提示していく。たしかに彼らの目的は、夜の一族の館と思しき場所での遺産の探索だ。それは、この場所が夜の一族の持ち物だった、という前提条件が成立しなければ、お話にならない。よって、いの一番に行うべき行動は、この館が一族関係者のものだというのを証明することだ。
 しかし、現状はどうだ。それすら証明できていない。これではいくら勤勉な性格でも、愚痴が先に口をついでても仕方のない、ともいえた。

「だが、愚痴っていても、終らないだろう? さぁ、再開しよう」

 パンパンとてのひらを二度、叩きあわせた。忍はしぶしぶと。ノエルは無言で、作業へと戻っていく。恭也も、手近の本棚から発掘を再開していった。



 この屋敷に入り、子一時間はゆうにたった頃であろうか。一行はめぼしいモノを見つけられずにいた。闇雲に探しても埒があかないと悟った彼らは、まず現状と今までの探索について、話し合うことになった。
 さきほど真っ先に捜索したリビングルームのテーブルに、屋敷の見取り図を広げた。素人ながらノエルの作だけあって、なかなかに精度が高かった。ある程度の概要を把握するには、充分すぎるくらいだろう。

「……あれっ? ノエルぅ、ワインセラー跡ってあったっけ」
「いえ、忍お嬢さま。少なくともそれらしき物はなかったかと」
「そうだよね。…………おっかしいなぁ」

 見取り図を眺めながら話していると、忍が首を傾げた。井戸の跡はあった。キッチンらしき残骸は見つけられた。ダイニングルーム、書斎、客室、寝室……それららしき残骸も当然、存在した。だが、ワイン倉庫だけは見当たらない。
 一通り見てまわった成果の結晶には、当然あるべきものの存在が書き込まれていない。もしかしたならば。この五里霧中の状況を打破するとっかかりを、つかみかけているのかもしれなかった。

「……なぁ、忍。ワインセラーがないのは、そんなにおかしいのか?」
「えっ? ……あっ、そっか。恭也、お酒に興味なかったっけ。それじゃ無理ないかも」
「このクラスの屋敷ですと、ワインセラーはほぼ確実にあるはずなのです。宗教上の理由、来客をもてなすため、あるいは邸の所有者の娯楽として。生活に欠かせないものであったと、とある書籍にも記されています。……よろしければ、出典もそらんじますが?」

 手元にあるメモ帳でも見ながら喋っていると、見紛うのような堂々たる言葉だった。その記憶能力の優秀さには、純粋に舌を巻いてしまう。

「いや、結構だ」

 その説明だけでお腹一杯だといった感で、即座に断わった。そんな恭也を盗み見て、忍は声を押し殺して笑った。仏頂面の凄みが増していた。まるで子供のように思え、彼女のツボは刺激されまくっていた。腹がよじれそうだった。

「あったと仮定した場合、もっとも確率の高い事例は、地下に備え付けるケース、及び倉庫のような特定の建造物の二通りが考えられるかと」
「……地下の可能性は、たしかに見落としていたな。もういちど調べなおすか、それとも外から見回ってみるか……どうする?」

 ツボにはいって苦しむ忍を他所に、冷静な二人は推論を重ねていく。なにぶん情報が少ないゆえ出せる結果などたかが知れている。だが、ただ疑問を溜め込むよりも、吐き出し照らし合わせ突き詰めていった方が、新しい発見に恵まれやすい。二人は、そのことを十二分に理解していた。
 三人よれば文殊の知恵。ようやく衝動が収まってきた忍に呼びかける。

「うん……」
「気になる箇所でも……あったか?」

 何か気になることでもあるのか、忍は気のないセリフしか返さなかった。その手元にはしっかりと手製の見取り図が握りしめられ、思考活動の手助けの一端を担っていることは疑いようもない。

「……うん。あのさ、ココ。よく見て」

 忍が指し示したのは、入口からはいってすぐ、ちょうど真正面に位置する大きな支柱の一本だった。似たような支柱が館の四隅に配置され、指し示したそれも会わせ、この広大な館を支えているのだろう。恭也の目から見ただけでは、不自然な点は見当たらない。

「支柱だな」
「うん。……そう、なんだけど…………それだけかな?」
「それ、だけ?」

 訝しげに眉をひそめ、続きを促がす。

「図上では柱になってるし、構造上も理にかなっているんだけど……」
「気になる、と?」
「というよりも、不自然なの。柱って普通に生活するぶんには、邪魔じゃない? 居住スペースを広くとりたいなら、なるべく小さめにするのが常識、なんだよ」

 年季の行った建築物であることは疑いようもない。鉄筋コンクリートやパネル工法、2×4などの技術が生まれてもいなかったのは、日を見るよりも明らかである。むしろ、現代の建築技術の常識をあてはめる方が、間違いなのかもしれない。
 このクラスだと持ち主は、貴族か富豪か地主か……それらに類する富裕層だろう。ランクの高い調度品の数々も、それを裏打ちしている。ならば、支柱を太くし華美に飾りたて、自身の権勢を誇示した可能性もおおいにありうる。しかし。

「四方に支柱を配置したのは、強度を高めたかったから、かもしれないけど……。そのくせ、太くした支柱自体には、なんら無頓着。装飾のひとつも手が加えられていないって、やっぱり変」

 普通に考えれば、強度を保つためにあえて太い支柱にした、という答えが正答なのだろう。館の主が華美な装飾を好まず、目立たないよう一切の装飾を施さなかった、とかそういうオチがついたりするのだ。それでも。

「一考の価値ありと思うんだが、ノエルはどうだ?」
「依存はありません」
「じゃ、決まりだね」

 とりあえずの目標は決まった。



 位置関係上、当座の目的地には一端リビングルームから出て、玄関経由で向かわなければ、ならなかった。問題の場所に到着し、そういう考えを念頭におけば、たしかにココは不自然に感じられた。
 玄関ドアから直進するとココに辿りつくのだが、問題の柱が道を塞ぎ、行き止まりになっていた。こんな場所に配置したために、デッドスペースが生まれてしまったのだ。まるで屋敷に、突然迷路があらわれ、道を閉ざしてしまったかのような不自然さだった。
 床にしゃがみこみ、忍は柱周辺を手さぐりしていく。柱には、それと分かるような箇所がなかった。次に石畳をさぐていると、柱のすぐ下で指に引っかかりを感じた。

「……ついてる。一発ビンゴ、だよ」

 地下への入口らしき隠し階段がみつかった。隠しといっても、そう、たいしたカラクリでもなかった。柱のすぐ下にある石畳に、取っ手が刻まれてあり、少々の力をこめれば持ち上げられるようになっていた。
 カラクリ自体は単純な構造だが、そうと知って探さなければ、おそらく気付かないだろう。おそらく、防犯の一種なのではなかろうか。昔の金持ちには、それなりの悩みがあったものだと思われる。


 恭也に場所を譲り、石畳をはぐってもらう。三人の目前には、ポッカリと口を開けた穴があった。誰かが、ゴクリと唾を飲み込んだ。まるでRPGのダンジョンみたいだな。そんな場違いな印象を、忍はおぼえた。

「俺が先行しよう。ノエルすまないが……殿を頼む」
「恭也さま、お気をつけて」

 姿をあらわしたその階段はやや急勾配で、ともすれば真下に向かって伸びている感じすらあった。無論、そんなわけはなく、キチンと斜めにのびているのだが……一寸先がまっくらで、奈落にむかっているのだと感じられたのだろう。
 スポーツバッグからペンライトを取りだし、スイッチを入れる。すると、前方でわだかまっていた闇は拭いさられ、なかなかしっかりとしたレンガ造りの階段が姿をあらわした。隠されていただけあって入口のあたりは狭く、恭也くらいの身長だと身を屈ませなければならなかった。

 足を踏み出すたびに、コツンコツンと硬質な音がついてくる。暗闇のなかではその音が、どうにも耳に響いて、落ち着かなかった。漠然とした不安を振りはらい、先を進む。ほどなくして、突き当たりにぶつかった。
 荷物をそこらに降ろす。ここまで大掛かりな仕掛けをしておいて、行き止まりはまずありえない。前方の壁にそっと指を這わしていく。ひんやりとした触感だが、レンガのそれとは微妙に異なる凹凸があった。
 ペンライトで照らすと、わずかな質感の違いが浮き彫りになった。木製の頑丈そうな扉が設置されている。ノブに指を引っ掛け、回したが……扉は開かなかった。見たところカギはかかっていないようで、おそらくは埃や砂やらでたてつけが悪くなったらしい。

「きょうやーー……わぷっ」
「あ……すまない、忍」

 熱心に調べるあまり、後にいる人間への配慮を怠った。その結果、忍の鼻はnm単位で引っ込むことになってしまった。

「……恭也。立ち止まったなら、そう言ってよ」

 多分、睨んでいるのだろう。この暗さでは、イマイチ細かな表情がつかみづらい。声から判断するしかないのだが……。打ちつけた鼻を押さえているようで、くぐもった声にしか聴こえない。

「あぁ、すまない。今度から気をつける……ついでといっては何だが、すこし後に下がっていてくれ」

 謝りつつ、腕のホルスターから小刀を抜きとる。忍が1、2歩、後へ下がるのを見計らい、その場にしゃがみこんで溝をのぞく。頬を石畳につけるような形で、恭也は小刀を溝にそって滑らした。2、3回くりかえし、障害となっていた砂埃がおおまかに取れたことを確認し、立ち上がる。

 小刀をホルスターへと、丁寧にしまう。その上でドアノブを回しながら、同時に右肩を扉へ接触させ、体重をかけていく。見た目通り、かなり重い。はたして、じょじょにではあるものの、扉は開いていった。





 まず、最初に気付いたのは空気。長い間、日の光はおろか人の侵入すらなく、停滞していた大気はかびくさく、しかも鈍化していた。ささいな挙動によって生み出される空気の流れは、通常よりも重くゆるやかで、高山のように薄く感じられた。
 ペンライトの光が、濃密な闇を切り裂いていく。見たところ……ホコリにまみれているものの、きわめて普通の倉庫のようだ。いささか肩透かしをくらったような気分で、恭也は後方へ声をかけた。

「危険は……ないようだ。入ってきてくれ」

 呼びかけに反応し、忍が顔だけでそっと覗きこんだ。と思うや否や、顔をしかめた。この場に蔓延している空気は、とかく汚れがひどい。味がひどい、臭いもひどい。そして極めつけに、地下室の常でしめっぽい。

「危険はないかもしれないけど……気分は確実にわるくなるよ」

 忍の眉間に3本の縦筋が刻まれた。顔をひっこめ、手持のディバッグからバンダナを取りだす。あっという間に、バンダナは即席のマスクとして、忍の口元を覆った。

「んッ……これなら、結構イイかも。ノエル、恭也も、どう?」

 ディバッグをあさりつつ、さらに2本のタオルを取りだし、二人の眼前に差し出した。くぐもった声だったが、ひどく聞きづらいということはなかった。これなら会話するのにも、あまり障害にならないだろう。
 渡された二人は無言で、しかし手早く、タオルを口元へと巻きつけていく。呼吸の不快感が違う。なるほど、確かに何もしていないよりは格段に、マシだった。かくして、典型的な大掃除スタイルというべき奇妙な格好をした三人組ができあがったのだった。



「それにしても……随分としっかりした造りだな」

 一階部分の崩落度合いからすれば、地下のコンディションは雲泥の差があった。しめっぽいものの、四方の壁は罅ひとつ入っておらず、後数十年は余裕で健在しているだろう。おそらくは、地下という繊細な場所だったから、念入りに基礎工事、設計が行われたに違いない。


 恭也は入口付近に立ち止まったまま、ペンライトを動かし、部屋全体を見通していく。全体の広さは、海鳴にある忍の自室とおなじくらい、であろうか。等間隔に置かれた棚が遠近感を狂わせるが、おおよその値は変わらないだろう。
 丁度、部屋の南側に階段があり、そこから真芯を通るように、歩けるスペースが配置されている。その両脇はというと、前述したような棚が並んでいる。奥の方までよく見えないが、おそらく三つづつ、計六つの棚があるのではないだろうか。
 棚には、円筒型のガラス瓶が丁寧に並べられてあった。そのうちの一本を手にとる。表面のホコリを取りはらうと、胴体部分にラベルらしきものが現われた。大部分の文字はインクがかすれている。それでも後半部分だけは読めた。weinとたしかに、そう記されている。

「うわぁ……見るからに年代物のワインだね。……ってことは、コレ全部、ヴィンテージもの!?」

 横から覗きこんで、呆然と忍は呟いた。おそらく忍の予測どおり、ココはワインセラーだったのだろう。棚に並ぶビンの形状は同一のモノが少なく、工場で生産されたものではなさそうだった。歯が抜けたブラシのように空いているスペースもかなりあるが、全体としてみれば、かなりの数のワインが残されている。外れかもしれない。恭也は、そう考えた。
 その旨を伝えようと忍のほうへ振り返ると、棚をみつめる視線が艶っぽくなっていることに気付いた。一族はおおむね酒豪の性質を持つ。さくらしかり、忍しかり。そんな中でも、忍は無類のお酒好きといっていいだろう。恭也には見当もつかないワイン等々を、いつの間にやら購入してくる。しかも、それを楽しそうに飲み干すのだ。恭也が知っている中で、一、二を争うくらいのといっても過言ではない。

 そんな彼女が年代物のお宝を前にして、平常でいられるだろうか。いや、居られない。

 夢見る乙女そのもののような表情で、うっとりと熱い視線を忍はそそぐ。ココを訪れた理由も覚えているかどうか。怪しいものだ。ひとつ嘆息をもらすと、恭也は一言だけ呼びかける。

「……忍」

 ビクンと彼女の身体が震え、おそるおそるといった風にゆっくり振りむく。恭也がいた。いつもの無表情に、わずかにピリリとしたオーラをまとった恭也が、いた。そのわずかな、が怖いのだ。
 だが、忍が謝るよりもはやく。恭也が口を開くのよりもはやく、行動した人物がいた。


 ツカツカツカと規則正しいリズムで、ノエルはワイン棚へと歩みよる。そして、恭也が手にしていたワインの横にあったそれを、おもむろに取り出した。じっとラベル、瓶、液体の色等々を観察していく。そして、ある結論を導きだすと、無造作にワイン瓶を元あった場所へと戻した。

「……申し訳ありませんが、お嬢さま」
「ナニ、かな?」
「温度管理が不徹底だったようです。ほとんどのweinが酸化しています」

 あくまで冷静に告げる。そん言葉がもたらした反応は顕著だった。ガックリと忍の両肩から力が抜けていった。

「長年、放置されてたみたいだもんね……仕方ない。すっぱり諦めて、本題のお宝捜しに専念しましょうか!」

 やけっぱちと空元気と照れ隠し。それらの丁度、中間点にありそうな複雑な感情で、言いはなった。




 三人は手分けして、地下室の家探しを敢行していく。とはいうものの、この部屋自体それほど物は多くなく、一通りのことはすぐに見て回ることができた。どうやら、常識的な探索ではみつからないようだ。各々がそう結論付けると、自然三人は一堂に会した。

「これだけ探して見つからない、なんて……」

 忍の声はどうにも苦い。さもありなん。隠されていたワインセラーは見つけた。貴族級の暮らしぶりは窺えた。だが、それだけなのだ。一族の――ひいては人形師の邸宅だったという証拠すら一切、みつからないときている。

「やはり、ガセネタだったということか?」
「残念だけど、その可能性は高いね」

 首周りのボタンを外しながら、手であおぐ。思ったよりも、涼を求められなかった。結局は徒労に終わる、そういうことなのだろう。残ったのは、気怠い疲労感ぐらいのものか。費用は一族もちで旅行できたと思えば、すこしは慰められるかもしれない。
 それにしても、不快指数がずいぶんと高い。外は陽光が遮られて肌寒いくらいだったのに、地下は湿気とこもった熱のせいで、ひどく暑く感じる。すこし動いただけで、額に汗がにじみでてきてしまった。

「仕方ない。一端、引き上げよう。その後の事はそれからにしないか?」
「さんせい」

 結論はでた。各々荷物を背負い込み、入口へと歩きだす。ふと、忍はノエルの挙動が気になった。この部屋に心残りがあるみたいに、何度も何度もうしろを振り返っている。その瞳には、いつになく揺れる感情が浮きでているようで、気になって問うた。

「ノエル……なにか気になることでも、あった?」

 気が急いていたのかもしれない。慎重に聞くつもりだったのに、直接的な言い回しになってしまった。口調は躊躇いがちだったといって、慰められるわけでもない。身体を縮こまらせて、反応を窺った。


 ノエルは戸惑うように、ふかく思考するように眼を閉じた。その時間が、二人にはすごく長いように感じられた。そのうちに、まぶたを開く。揺れてはいるものの、真摯な光がそこにあった。想いが決まったのか、ゆっくりとその声帯を震わしていく。

「……あちらの壁に見覚えがある、のかもしれません」

 スゥーと指差した先にあるのは、丁度、行き来してきた階段の反対側の壁だった。恭也と忍は顔を見合わせる。ノエルの顔には、自信という文字がない。自分でも不思議なのだろう。論理的にではなく、ファジーに気になってしまう自分の感覚を信じられないのかもしれない。
 もし、この邸宅がそうなのだとしたら、ノエルに見覚えがあるというのもありえない話ではない。すべて、“たられば”のIFの話だ。だが素人が探索しようとすれば、勘に頼るのが正道なのかもしれなかった。

「分かった。調べてみよう」
「このまま帰るのもなんだし……すこしくらいなら、寄り道もいいよね」

 迷い気味のノエルに、二人はあえて軽く言いはなった。


 一概に壁といっても、結構範囲はひろい。北側のと注釈がつくが、それでも探索範囲はひろい。何に見覚えがあるのか。なにがキーなのか。どこに手がかりがあるのか。不明瞭なまま、手探りを行っていく。
 まず、手の届きにくいところ――天井付近は除外してイイだろう。何があるにせよ、日常的、もしくは頻繁に出入りする場所ならば、手の届く範囲内に設置することで、扱いやすくするはず。
 となると、やはり壁というキーワードに着目するべきだろうか。恭也はレンガを組み合わせた壁の外見をひとつひとつ、丹念に調べていく。手の届く範囲内のすべてのレンガを、だ。その地道な努力は報われた。左手の隅に差しかかった時点で、指が異変をとらえた。ひとつのレンガの感触が軽かったのだ。
 恭也はホルスターから再び小刀をとりだし、裂け目へと慎重に刃を滑らせる。案の定、そのレンガは簡単に外れてしまった。他のとはちがい、どうやら嵌っていただけらしい。奥には小物が収納しておくだけのスペースがあった。
 期待感に胸をふくらませ、ペンライトで手元を照らしながら中を探っていく。はたして、指はひんやりとした異物に触れたのだった。放り投げるように、ソレを掌へと転がす。狭いから自信はなかったが、上手くいった。

「これは……歯車、か?」

 ライトが照らしだした右掌には、黄金色の小さな歯車があった。こんな場所に長年、放置されていたというのに、錆ひとつない。それどころか、平面に刻み込まれた文字すら、はっきりと確認できた。

「恭也……ソレ、どうしたの?」
「そこでみつけた」
 
 あごをしゃくって、場所をしめす。ひとつだけポッカリと空いた孔が、どこか物悲しい。ちょっと貸して。そう言うと、忍は奪いとるような素早さで、小さな歯車をつかみとった。

「これ……自動人形に使われてるのと、ソックリ」

 縦横、斜めからペンライトを当て、慎重に鑑定していく。見れば見るほど、記憶のなかの歯車と掌のソレは類似点を多くしていく。だんだんと夢中になり、テンションが上がっていく忍に、恭也はあえて水をさす。

「忍、表面に刻まれている文字に、見覚えないか?」
「ちょっと待ってて。ええっと……える、あい、いー、びー、いー、エヌ……ティー、オー、シー、エイチ、ティー…………」
「……次にE。そして、最後はR」

 忍がすべての文字を言いきってしまう前に、口を挟んだ人物がいた。ノエルだった。

Lieben Tochter愛する娘…………と刻まれているはずです」
「ノエル!」

 二人の声が重なる。呆然と彼らはノエルをみつめた。それしかできなかった。









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