「お父様、お母様、お休みなさい」
「はい、おやすみ」

 深々と頭を下げる。ふわふわの髪が零れ落ちていった。時刻は夜10時。彼女の身を包むのは、銀杏をあしらったデザインのパジャマ。少し子供っぽいが、気に入っていた。ピンク、白、黄色。色違い三色、全て手に入れるほどに。白が一番のお気に入りなのだが。

 就寝するには些か早すぎるような時刻。彼女の親はそれに何の異論もないよう。彼女の就寝が早いのは、もはや習慣と化していた。それに、幾ら何でも寝るの早すぎやしないか。なんて苦言する親がいるはずも無く。彼女の安眠は10時。遠き日の尊い約定のように守られていた。



 彼女の自室は典型的な和室。寺が態々、改装して洋室にするわけもない。彼女自身、イグサの香りに包まれての睡眠に抵抗を感じていなかった。むしろ、その方が落ち着いて良かった。西洋人形然とした外見とは違い、和の様式美をこの上なく好んでいるのだ、彼女は。

 アナログな鐘を打ち鳴らす型の目覚し時計をセットする。半ば惰性のような手馴れた手つき。眠る前に欠かしてしまうと、起きられない可能性があるため。もっぱら、時計の力に頼っていた。

「あふぅ」

 可愛らしい欠伸が漏れた。眠気が訪れるのも早い。瞼を閉じれば、すぐに睡魔がやってくる。子供の頃の習慣のまま。肉体が早寝に慣れているから。そのまま彼女は健康的な眠りにつく。

「おやすみなさい」

 此処にいない妹へ、夢と現実の狭間でそう呼びかけた。










 プカリと。志摩子は海を漂っていた。人肌の温い液体に全身が包み込まれている。素肌に直接伝わる、水の感触。紛うことなき全裸。何故と。不思議に思うことすらしなくなっていた。夢は不条理なのだと、意識の奥で理解していたやも知れぬ。

 暖かい波が少女の全身を被い尽くす。荒々しい波は熱情を表しているようで。何度も何度も、波の飛沫が顔を濡らす。爽快なまでの一体感があった。世界すべてが少女のものとなり、少女自身が一個の世界となる。溶け合い、溶け込む。皮膚が、快楽の電気信号を発した。


 あ、気持ちイイ……


 驚くほど素直に感じた。子猫に舐められているのに似ていたから、かもしれない。ザラリとした粘膜の感触は夢と思えないほどリアルで。肉体が顕著な反応を示す。夢の中までは、マリアさまの視線も届かない。熟しきっていない若々しい肉体は、温かい情熱に解きほぐされていく。

 高熱に犯されたときのよう。意識があやふやで、身体を動かしている感覚がない。それなのに触覚は鋭敏で。関節に篭もった熱がじんわり隅々まで浸透していく。志摩子の、穢れない肉体を犯していく。
 一方的に蹂躙されているのではない。互いの熱を交換するように。想いを交錯させるように。微粘膜が柔肌をなぞっていく。やさしく、大胆に。性急に、ゆっくりと。緩急自在な、その手腕に。志摩子の肉体は快楽を貪り、貪られていく。


 丁度。双球に出来た谷間。浮かんだ汗を舐め取られていた。それは熱心に。まるで、世界一美味な白葡萄酒でも零れているかのよう。耳朶を打つのは、汗を舐めとる音。ピチャピチャ……と。紅い舌が肌を這う。粘膜と肌が奏でる音階がこんなにも、淫靡であると志摩子は知らなかった。

 舌は、いよいよ核心に触れつつあった。うっすら浮き出た肋骨と控えめに張り出した胸。その境目をなぞる様に動いていく。焦らすように、もっと熱を昂ぶらせるように。蛇のような狡猾さで一歩一歩。志摩子の逃げ場を削っていく。乳房を他人の良い様にされているのに。不快、という言葉は浮かばなかった。あまりに肢体を貫く感覚が甘美だったから。楽園に実った林檎のように魅惑的であったから。


 ダメ……。


 制止する。彼女の心と身体。双方ともマリア様に奉げている。まだ学生の身であるから実質的な肩書きは持たない。が、マリアさまへと奉げると決めたのだ。現世の柵、欲は捨て去るべきである。そう、彼女は信じていた。
 初めて、マリア様を見たときの感動を。世界に希望と優しさが溢れている事を知った、あの歓喜を。汚したくなかった。その為にも甘すぎる欲望に打ち勝たなくてはいけない。
 
 だが。
 夢想の相手は何処までも追ってくる。腰を引けば追って来る。胸を逸らせば、執拗に追い詰める。偏執なまでに志摩子の精神を堕としめようとする。醜い欲望と断言できれば、抗いようもある。神にささげた純潔を必死に守り抜こうとするだろう。だが一方で、どこか偏った愛情を真摯に伝えてくるのだ。


 好き。全てが愛しい。受け入れて、お願い。


 ……見捨てることが出来なかった。欲望に負けたわけではない。ここまで真剣な情愛を向けられて。夢の中とはいえ拒絶することなど。志摩子にはどだい無理な話だ。隣人愛。二つの形はキッチリと収まらないかもしれない。だが、その狂熱を包み込んでときほぐしていけば。少なくとも、一人の狂熱は穏かになるはず。
 それもまた、神への信仰。不定形で流動的な愛の形のひとつ。
 志摩子は抵抗を止めた。やさしく異物を両の手で包み込む。その面にはマリア様の如き無限の慈愛が、まざまざと感じ取れた。


 私が、罪を赦します。


 その罪を想って涙する。行き場のない想いを抱えたまま、幾度の夜を越えて来たのだろうか。狂おしいまでの愛は時として、自身すら傷つけてしまう。彼女にも熱の差異、埋められない距離に、どうしようもないやるせなさを抱いた経験がある。
 同情から来た共感かもしれない。しかし。肉体を赦すこと、こころを開き与えることは、一片の真実だ。誰にも、その想いを否定できない。


 ……違うわ。罪というなら二人のもの。あらゆる辛苦と幸せを分けなければ。


 志摩子のこころが回された腕から雪崩れ込んで来たのか。罪人は涙していた。その凡てを理解されたと夢にも思えない。苦しんできた愛は、自分自身にしか存在しない唯一の物。どれだけ近しかろうが、完全な理解など夢想の産物。だが、温もりは本物だ。
 二つの人影はお互いの温もりを感じるまま。心が命ずるまま、すすり泣き続けた。零れ落ちた涙は、やさしい雨になって地上に降り注ぐ。御伽噺のような出来事。迷信すら信じられた。他者の体温が傍にある、現在は。



 いつしか、腕の中の人影は瞳を閉じて、身を委ねていた。赤子のような無垢な表情。先程とは違い、胸をまさぐる指先も不思議といやらしさを感じさせなかった。無意識の行動だからかも知れない。幼子が母親に縋るように。刻み込まれたインスティンクト。
 志摩子の指が髪へと伸びる。色素の濃い黒髪が、指の隙間から零れ落ちる。上質な絹を思わせる手触りに魅了された。いたわるよう。根元から毛先へと手櫛を入れつづける。やさしくも甘い、二人だけの時間が流れていく。

 志摩子の細い指に、別の指が覆い被さる。梳っていた動きが驚いて静止した。


 ……!


 一瞬後、力を抜き、成すがままに任せた。
 互いの指が戯れていた。絡ませ、擦り、なぞる。もはや指遊びではない。互いの指を媒介とした意思の疎通。無言でありながら、どんな言葉よりも雄弁に。気持ちを伝えていく愛情の遊戯。

 黒い瞳が、悪戯げに細められた。戯れに結ばれた手がほどかれる。その行き先は、ふっくらした志摩子の唇。艶やかな下唇を、皺すら引き伸ばすよう、丁寧になぞり上げる。唇についた唾液が塗り広げられていく。次の瞬間。唇と唇が閉じ合わされていた。
 
 級友たちが戯れに口付けを交していることを、志摩子は見ていた。冗談がすぎると考えた事もあったが。入り込めない夢の國を見ている感覚が強すぎて。カワイらしいという想いが先立っていた。憧れも形を持って存在していたのだ。

 キスを交わして、初めて知った。こんなにも心を動かされのだから、皆、経験したがるのだと。二つの舌が絡まり合っていた。歯並びをノックし、粘膜にご挨拶。あたたかかった。じかに体液を交換し、じかに体温を交差させる。
 手を繋ぐとか触れ合うことよりも、更に深いコミニケーション。心と肉体が震えた。


 
 肺が苦しくなって、唇が離れたのは同時。プハッと。少々、間の抜けた吐息がもれる。空気を貪りながら、視線を相手に向けると。同じような瞳にぶつかった。果たして、先に微笑を溢したのはどちらだったか。


 うふふ。
 あはは。


 二人して苦しい呼吸のまま、笑い合う。残り少ない酸素すら追い出さんと、笑みが込上げる。目尻から、涙すら浮かんでくる。何もかも忘れて。幼子のように、ただ笑い続けた。
 衝動が収まりかけた頃。もう一度、微笑んでいる相手の顔を見て、小さな笑いが浮き出る。


 何でもないことの連鎖。
 求める物がこんな近くにある。そんな状況を幸せと呼ぶのかもしれない。



 志摩子の指が、頬を撫でる。肉付きの薄い成長期特有の肌。その少し固い感触は、愛しさを感じさせる。このまま二人で過ごせれば、どれほど幸せだろうか。肉欲とは別な、耐えがたい悪魔の誘惑。


 開けた世界は、二人に厳しいだろう。彼女らの関係は、どこまでも異質。色眼鏡で弾き出され、拒絶と排斥を噛み締めだろう。だが、閉じた世界に閉じこもっては、何もかもが無駄になってしまう。結びついた縁も、友情も。他の大切にしてきたモノ、すべて棄て去らなくてはならない。そんなこと、志摩子は嫌だった。彼女はとても欲張りなのだ。もっと大きな幸せが見えているのに。小さな幸せだけで我慢できよう筈もない。

 雨の日に差し出された手に縋って、ロザリオを渡してから。求めることを学んだ。掌に仕舞いこんだ小さな幸せ。今更、切り捨てることなんて出来よう筈もない。手放したくないならば、動き出さなければならない。

 姉にできたことが、彼女に出来ない筈がない。いや、それ以上を仕出かさなくてはならない。一歩引いて見守るなんて時期はもう、過ぎ去っていた。感情を抑え、世界に適合するのではなく。世界を自分たちの色――白一色に改革する。

 きっと。とてつもなく難しく、反発も多いだろう。だけど、姉妹スール二人で手を取り合って歩いていけば。もっと……幸せ。だって。私はひどく自分勝手で、わがままな人間なのだから。


 晴れ渡った笑顔だけが、二人の表情。



 また、ね。
 また。





 約束を交わして、心地よい眠りの中へと引き込まれていく。夢の中で眠ったら何処へ行くというのだろうか。答えを探しても、みつからない。それよりも。実際に体験してみれば理解できる筈だった。全身を覆う睡魔のお仕事に抵抗きそうもない。志摩子の意識は、ゆっくりと深い底へと沈んでいった。












 MW
 このまま終れ。
 もっとやれ→Next

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