秋の日が沈むのは、はやい。木枯らしに追い立てられるのかのように、さっさと落ちてしまう。冬の足音が間近に聴こえるような月なら尚の事。気の早い寒がりは冬物コートの襟首をたて家路を急ぐ。リリアンに通う乙女たちもまた日が暮れきってしまう前に、帰り道につく。学園祭の準備に忙しい山百合会の面々も例外ではなかった。
 来るべき期日にむけて騒然としていた薔薇の館も、住人たちが帰路へについてしまえば静けさで満ちる。普段の華やかな印象はうすれ、寂しささえ感じさせた。人が住まなくなった家はおどろくほど早く朽ちていくという。薔薇の館もきっと、その通りなのだ。艶やかに咲き誇る三つの薔薇がいて、蕾が彩るからこそ、華やかな乙女の聖域として成立する。がらんどうになった薔薇の館は、冷たかった。


 白薔薇の蕾である志摩子はひとり、薔薇の館内のサロンにいた。ひっそりと静まり返った館に留まっているのには、ワケがある。彼女の目的は、本日使用した食器の後片付け。蕾の身分ではあるが一年生でもあるため、雑用類は彼女の仕事だった。同じ一年生であるロサ・フェティダ・アン・ブゥトン・プティ・スールこと島津由乃は通院のため、先に帰ってもらった。志摩子に文句はない。由乃が病弱なのは周知の事実だったし、なにより志摩子は人のために働くことが苦ではない性格をしていたから。そうでなければ、嫌がられる役職の代表格――環境整備委員会などに、自分から籍を置いたりなどしないだろう。

 洗い終わったティーカップの水を切る。それで、すべての後始末は完了。タオルで濡れた手を拭い、一息つく。達成感から派生した吐息がこぼれおちた。彼女の視線は本日の成果を見据える。磨かれ汚れを落とされて、青白く輝く陶器の群れ。人に誉められる事は期待していないけれども、ピカピカになった食器たちを眺めるのは好きだった。ジッと見つめ続ける。だが、今日ばかりは、成し得た結果だけに想いを馳せることはできない。
 瞳はたしかに奇麗になった食器群を注視していたけれども、心は別方向へと飛んでいた。それよりも気にかかることがあったから。


 浮かぶのは、二つの出来事。ひとつは帰り際、黄薔薇の蕾に手をひかれつつも、こちらをすまなそうに見ていた由乃の双眸。もうひとつは……学園祭ひいては山百合会の運営に関わる予想外のアクシデント。

 学園祭には山百合会も裏方としてだけでなく参加する。山百合会主催の演劇。題目は“シンデレラ”紅薔薇の蕾がシンデレラ、お隣の花寺の生徒会長が王子様を努めることになっていた。しかし、主役の片方――小笠原祥子が嫌がった。そこから、だった。外れた車輪が坂道を転がるように、事態が悪化していったのは。
 どこがどう複雑に絡まって、事態が進行していったのか。当事者ではない志摩子は詳しく知らない。漠然たるレイアウトを把握しているのみだ。だが、それでも。頭の痛い、収拾のつかない事態になってしまったのは理解できた。


「……紅薔薇の蕾ロサ・キネンシス・アン・ブゥトンプティ・スールについて」


 言葉にすれば、たったそれだけ。だが、とても重要な案件。妹を持て、と急かされるのは山百合会の伝統のひとつ。次代の蕾が薔薇さまに、蕾の妹が蕾へ。世襲していくのだからグラン・スールの気持ちも納得できなくもない。今代の紅薔薇の蕾が妹を持っていないのも、また事実。
 そこまで連想して、志摩子の胸はチクリと痛んだ。どれだけ贔屓目にみても、彼女にはロサ・キネンシス・アン・ブゥトンへの負い目があった。最初に申し込まれたのに、スールの誘いを断ってしまっている。その所為で、祥子が苦境に追いやられてしまった。どうしても、そう考えてしまう。姉妹の申し出を重複できない以上、どうしようもなかったことだが、それでも。鈍痛が胸を支配する。

 罪悪感はいらぬ痛みまで運んでくる。キーワードは紅薔薇。巻き込まれ、どうしたらいいか判らない。そんな迷い子のような表情。当事者となってしまったクラスメートの顔は、親交が薄くとも志摩子の心を揺さぶるに足りていた。



 カタンと音が鳴る。その物音に驚き、志摩子は身を竦めた。どうやら、館の扉が開かれた音らしい。誰かが薔薇の館へやってきたのだ。しかし、薔薇の館は一般の生徒が気軽に寄れるような場所ではない。薔薇さまと山百合会という看板は、一般生徒には垣根が高すぎるのだ。
 だとすれば山百合会メンバーの誰か、だろうか。否、それも可能性として極小だ。役員に名を連ねる大半は既に館を後にしている。志摩子だけが、薔薇さま方に無理を言って残ったのだ。どうして、わざわざ踵を返し、館へくる必要があるだろうか。
 不意に、忘れ物という単語が浮かんだ。ふわりと髪をなびかせて、室内を見渡す。誰かの私物とおぼしき物体は見当たらない。忘れ物の線は薄くなった。第一、効率を重視し考えれば、明朝すこしはやく家をでて、始業のチャイムが鳴る前に薔薇の館に立ち寄れば、それで済むことだ。わざわざ、帰路についていた足をもどす必要も理由も考えにくい。
 物盗り。忌避すべき単語が彼女の脳裏を一瞬、よぎった。しかし、早急に棄却される。薔薇の館はリリアンの中庭に位置する。盗みに入るためには、様々な障害を排除しなければならない。その上、普通の生徒会の例にもれず金目の物は置いていない。リスクばかり高くて、返ってくるモノは少ない。いかに志摩子が世の中に疎くても、それくらいの判別はついた。では、一体?



 お手上げの状態に陥る前に、件の人物が扉をひらき、姿を見せた。
「……由乃、さん?」
 特徴ある二本の細い三つ編みが揺れていた。あらわれた人影は早々に帰宅の一途を辿ったはずの黄薔薇の蕾の妹、島津由乃だった。
「ごきげんよう、志摩子さん。もう、後片付けは……終っちゃったみたいね」
「ごきげんよう。でも、なぜ?」
 一番、意外だった人物が姿を見せたからだろうか。志摩子は瞳を白黒させていた。彼女にしては珍しいことに驚きが率直に表情に表れている。そんな彼女に感化されたのか。由乃もまた、意外そうな表情を浮かべていた。
「決まっているでしょう? 雑用は私たちの仕事じゃない」
「そう、だけれども……病院にいかなくてはならないのでは?」
 カタンと椅子を引きつつ、由乃は答えていく。痩せた身体は椅子の上に納まった。座った彼女と立っている志摩子では、目線がうまく噛み合わない。見下ろすのも失礼かと思って、志摩子も離れすぎず近付きすぎない適当な場所へと腰を落ち着けた。意図したものではなかったが。話を聞く態勢が整ってしまった事に気付いたのは、正しく後の祭と言えよう。
「令ちゃ……お姉さまが部活の人たちに捕まっちゃってね。少しだけ伸ばしたのよ」
「そう」
 志摩子は視線を外し、ガラス窓の外を仰ぎみた。隅の方から少しずつ色を深めていく空が瞳に映る。日暮れが近いのだろう。こころなしか、室内の空気も湿っぽくなっているようだ。見目好い眉を傾けただけ。彼女は黙して語らない。ただ、外界の景色をみつめていた。
 由乃は、志摩子の瞳に映り込むモノをみていた。いや、そうではない。志摩子の憂いを秘めた瞳自身をみつめていた。彼女の一挙手一投足を見逃さぬよう。動作の奥に隠された彼女自身の心を探り出すように。
 膠着したサロンの空気。先に動いたのは、志摩子だった。体の向きは変えず、呟くように問いかける。
「それだけでは、ないのでしょう?」
「えぇ、勿論よ」
 答えながら、鞄の中から愛用の膝掛けを取り出していた。それは目前の人物と向き合う決意であり、戦争じみた会話をすることへの宣戦布告。焦らすかのように数瞬置いて由乃の唇が震える。
「こうしてキチンとお話するのは初めてね」
「そう、だったかしら?」
 会話の取っ掛かりを探るように、平凡な語りからはじめていく。無論、両者とも世間話で終ろうなど微塵も考えていない。少女たちの可憐な容姿とは裏腹に、ぶつかり合う視線はそのまま絡みつき粘着し、腹の探り合いを繰りかえす。それは、目に見えぬ剣戟の応酬にもよく似ていた。
「えぇ、そうよ。貴女ときたら、ロザリオを受け取るまで呼びつけられる以外、ココに寄り付かなかったでしょう?」
「そうかも、しれないわ」
 焦れたのか。由乃が口火を切った。この程度で志摩子の隠された心を引き出せるとは、欠片も思っていない。だが、大物を釣り上げるには一見、無駄に見える撒き餌も必要だということを彼女は理解していた。相手は、笑顔の下に潜む志摩子の本心。撒き餌の言葉ぐらい、対価としては安いものだ。
「貴女がどんな性格で、どんな趣味を持っていて、将来どうしたいのか、聞いてもいいわよね?」
「……なぜ?」
「順当に行けば私たちは一年と数ヵ月後、薔薇さまになる。それでなくても年を跨ぐ付き合いになるわ。お互いの性格を知っておいても損はないと思うの」
 由乃の行動理由は単純明快だった。友人のことを知りたい。ささやかなそれが彼女を動かす動機の核だった。だが、みくびることなかれ。この場に臨むにあたり、彼女がしてきた決心を。
 いかに迷える子羊たるリリアンの学徒といえども、好悪の感情は存在する。これは人間たるもの持っているのが当然の感情である。ない方がむしろ人間として歪だ。そして、由乃の気性はすこし激しい傾向はあるものの、嫌いな性格の人間と仕事はしたくないと思考するほどには真っ当だった。机を並べて仕事をする仲間は馬が合うほうが良いと考えるほどに、真っ当だった。
「……」
「……まぁ、いいわ。これから追々知っていけば良いだけの話だもの。それより……」
 しかし、志摩子は沈黙でもって返す。語るべき言葉を知らないといったところか。自分がどんな性格か、どんな趣味を持っているか、将来の夢は何某だ。そうすぐさま答えられるほど人間というモノは軽くできていない。由乃も殊更、聞き出そうという意図はなかった。先手必勝。それが彼女の信条だが、すべてに置いて通用すると考えるほど愚者ではない。
 志摩子の反応から、どんな性格かぐらい引き出そうとは思っていたが。結果は芳しくなかった。ついでのつもりだったから落胆の溜息を吐くこともない。ただ……少しだけ悔しくはあった。志摩子の、柔らかな拒絶の壁――笑顔を崩すことが出来なかったから。



 本題に入ろうと唇を開き、そして何かが作用したかのように止まる。躊躇っていた。即断即決が人の形をなしているような彼女。考えることはあっても、躊躇った経験はなかった。
「由乃さん?」
 促がされるが、彼女の声帯を震わせるまでには至らない。由乃にしては珍しいことに戸惑っていた。口を開いて良いのか、どうなのか。それが判らない。語るべき言葉を当事者抜きで話していいのか、判別がつかない。判別つかない感情に苛立ち、細い指は膝掛けに皺を刻んだ。
 語るべき言葉。それ自体は由乃の内で形になっていた。シンデレラ・ガールとなった少女。福沢祐巳について。
 降って湧いた彼女の存在は、山百合会という池に投じられた小石のようなものだ。その波紋はメンバーへと確実に影響を及ぼしている。ロサ・キネンシス然り、ロサ・フェティダ然り、ロサ・ギガンティア然り、アンブゥトン然り……。そして、対峙する二人然り。
 デリケートな問題でもある。ある側面としてみれば、紅薔薇の家系のみの問題でもある。だが、それだけならば躊躇いはしないし、ちょっかいを出そうとすら思わない。
 彼女にとってはこれからの学園生活で長時間、付き合うかもしれない人だ。どんな人か、知りたい。そう思うことは決して罪ではないはず。
「私とお話するためだけに戻ってきたのではないでしょう?」
「……えぇ、そうよ。認めるわ」
「ならば、語るべきでは?」
 多分、すべての歯車が噛み合っていない。由乃は戸惑い、志摩子は強制する。どちらもおよそ、らしくない。祐巳の残した波紋が為した結果だった。躊躇いを捨てるかのように、溜息をひとつ。それが彼女のこころを決めた。
「敵わないわね。そう、聞きたいのは福沢祐巳さん、彼女のことよ」
「ゆみさん……」
「貴女について以上に彼女のことを、私は何も知らない。お姉さまたちがどう考えているかも知らない。だから……知りたい。あの人のことを」
 そう言い切った彼女の瞳は、まっすぐを見つめていた。真贋見極める鑑定人のように。一音を正確に捉える音楽家のように。件の人物のアウトラインだけでも彫り出すように、風評すら利用して。強い意思が小柄な全身から感じられた。
 多分、その所為なのだろう。責任が曖昧模糊になる噂というモノを嫌う彼女が口を開こうと思ったのは。……もしかしたならば、志摩子も祐巳について自分の印象を纏めたかったのかもしれない。
「……そうね。普通の方だわ。笑って怒って泣いて……表情の豊かな人」
 ツインテールのクラスメートを浮かべる。今日の今日までろくに話し掛けもしなかった。それは志摩子の悪癖であり、逃避の表れでもある。ただ、眩いと目を細めるだけで行動しない。欲していたとしても動かない。それが志摩子のスタンス。例え、手を伸ばしてつかみたいと思っていても、動けない。その臆病さが、今回にかぎって功を奏した。
 机を並べて勉学を学んでいれば、何でもない少女たちの姿を逐一見ていれば、嫌がおうにも気付いてしまう。素直で、感情表現が率直で、一風変わった志摩子とは正反対のような女の子らしい普通の女の子。稀少な宝石になりうる原石な祐巳の輝きに、気付くことができた。
「それは理解してるわ。楽しそうな人だってこともね」
「……そうね」
 頬が苦笑いを形作る。怪人二十面相も顔負け。百面相を惜しげもなく披露していたのだから。期せずして、二人の表情に年齢に見合った華やかな笑顔が灯った。少なくとも、祐巳の判りやすい感情表現には、癒し効果があるらしい。二人の間にわだかまっていた緊張感が緩んでいた。
「……単刀直入に聞くわ。あの方は私たちにとって必要?」
 ズバリ上段一閃、切り込んだ。策士にはまるで向かない、戦国の猛将のような切り出し方。しかし、それが逆に由乃らしい。視線すら固定し逸らさず、一直線に真向かいにある顔を直視し続ける。志摩子にとって羨ましくも憧れる少女の在り方。由乃の思い切りのよさが眩しくて、目を細めた。
「どう、なのかしらね」
 他人事のように呟く。淡白ともとれる彼女の態度が、由乃の気に障ったのは云うまでもないことだろう。
「ちょっと、志摩子さん!?」
「性急すぎるわ。祐巳さんはなにも仰っていなかった。意思表示すらキチンとしたとは言いがたいわ。まるで置いてけぼり……」
 弁護するつもりではなかった。気付いたら唇が彼女を庇っていた。ただ、それだけのこと。だが、立板に水を地でいくように唇は言の葉を紡いでいく。それが昔からの考えであったかのように。止まらない。
「……そうね。一面の事実であることは肯定しましょう。それで?」
「それで、とは?」
 内に篭もった熱気を吐き出すように、一息置いてから喋りだす。志摩子は冷静さを取り戻した由乃の瞳を見つめて、オウムのように問い返した。多くは語らず、相手から引き出していくのが本来の彼女の会話手段。
「結論を急いでいたのは認めるわ。だけど、それとこれとは話が別」
「例え、祐巳さんがロザリオを受け取ったとして、私たちが嫌がろうともできる事はないわ。そうではなくて?」
 ぶつかりあう視線。耐え切れなくて逸らしたのは、由乃が先だった。
「……悔しいけれど、その通りね」
「今の段階で判断を下そうとしても速過ぎるわ。今はまだ、流れのままに。それで良いのではなくて?」
 それで議論はお終いと言わんばかりに、志摩子は帰り支度を整える。横目でその動作を見つめ、由乃もまたテキパキと荷物を鞄に詰め込んだ。その間、二人は一度も視線を交えなかった。



「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
 決まりきった聖句を唱えるように、二人は交す。それさえ守れば、礼節は保たれると頑なに信じている幼子のよう。彼女らの価値観は絶望的なまでに溝があけられていた。それですべてお終いと言わんばかりにドアに向って歩き出していた。由乃は振り返ろうとすらしない。
「ひとつだけ、訂正してもいいかしら?」
「何かしら?」
 歩みが止まった。ちいさな顎を引き、傾いた視線は足元へ注ぐ。足元のフローリング一枚一枚。うっすら消えかかった年輪すら見極めんとしていた。悔しさと情けなさに裏打ちされた熱が、彼女にその行動を取らせていた。不意に何かを思い出したかのように、半ば独言を語り出す。
「私たちには何もできないと、貴方は言った。でも違う。その気になれば……姉妹関係を解消することで、彼女から離れることも出来るわ」
 首にかかった信頼の証し。ロザリオのチェーンに指を絡ませて、由乃は語る。抽象的表現が多すぎる。判りづらい事この上ない。だが、彼女には確信があった。志摩子には、他ならぬ彼女には意味が理解できると。その瞳には尋常ではない輝きがあった。猛禽のような鋭い輝きが。しかし、それを受けても志摩子の微笑みは揺らがない。どうして揺らぐことがあろうか。
「由乃さん。貴女はそんな事ぐらいで行動するような人ではないわ」
「……かもね」
 捨て台詞のような一言を残して、由乃は歩み去った。いつの間にか、橙色のひかりは隅へとおしやられ、薄い影が世界へ侵食していた。影と光が交じり合う光景を、志摩子は呆然としたまま、見つめていた。手にした鞄が、いつもよりも重い。帰宅の用意はできているというのに。帰らなければならないというのに。両足は理性を裏切り、動かない。それとも、無意識の内に動きたくないと想っているのか。
 扉を目に映りこませる。内と外を隔てる。しかし、確実につなげている出入り口。より良い答え――未来へと繋がっている扉も、どこかにあるのだろうか。あるのだとしたら、その鍵はきっと。
「祐巳さん。貴女はどんな選択をするの……?」
 見たい、聞きたい、そして知りたい。志摩子ははじめて欲することを願った。奇しくも、それは由乃の願ったことと同一だということに気付かぬまま。











 若々しい木々が群生するそこは、都内とは思えないほど緑に溢れていた。深呼吸すれば、むせかえるような春の匂いが鼻腔をくすぐる。見渡せばピンク、空を仰ぎ見ればスカイブルー。そこは彼女にとって思い出の場所であり、秘密の場所だった。学園内でも奥まった場所に位置し、意識して探索しなければ、きっと気付きもしない。高等部の中でもどれだけの人が、その場所を知っているだろうか。彼女にとって、隠れ家的な場所だった。
 僅かに開けた広場の真ん中で、桃色の花びらが舞っていた。ゆらゆらと揺れながら落ちて、そして大地へとかえっていく。幼子のように彼女は、繰り返される自然の風景に魅入っていた。
 桜。日本という国にその植物が植えられたのは、戦後を境にしてから。お國のために散っていった魂を慰めるため、植えられたという。では、桜が美しいのは御霊を慰めるために込められたヒトの想いを感じ取ってか。一種、魔性の美がそこにあった。魅入られれば、抜け出せない。誘われるまま、彼女は手のひらを差し出す。やんわりと花弁が積もっていく。匂いが強まっていた。
 桜は、彼女の内でも特別なモノだ。人生のターニングポイントには、いつも桜が関係している。姉にしても、そう。妹にしても、そう。香りに包まれたまま眠りたい。不意に思う。その願望のまま、彼女は瞳を閉じる。この居心地のいい場所から、動きたくなかった、追い出されるのは嫌だった。鼻腔をくすぐる香りが眠りを誘う。
 桜舞う広場にひとり、佇む少女。一枚絵のような光景に綻びが生まれる。停止した時を動かした乱入者は、同じ濃緑色の制服に身を包んだ少女。
白薔薇さまロサ・ギガンティア
黄薔薇さまロサ・フェティダ?」
 呼びかけられ、多少の動揺をもって振り向いた。白薔薇さま。その敬称自体はここ一年で慣れはしたものの、呼びかけの主から放たれると違和感がよぎる。最初に言い出したのは、果たして誰だったか。薔薇さまたちを見習って、仲間内でも敬称で呼びましょうといったのは。多分、呼びかけの主からだ。提案をするのはいつも決まって彼女から、だったから。
「なんだか、不思議な気分だわ。私が黄薔薇さまロサ・フェティダなんてね」
「うふふ。……まるで、自分が自分じゃない気分かしら?」
 少しだけ、悪戯心を込めて揶揄した。彼女と顔を付き合わせると、いつも通りでいられない。怒ったり泣いたり叫んだり、少しだけ感情の箍が外れやすくなってしまう。心を許している証拠、かもしれなかった。
「そう云えば……これに関して志摩子は先輩だったわね。よろしくご指導ご鞭撻ください」
 深深とお辞儀。動作に合わせて、ピョコンと踊る2本の三つ編みが可愛らしい。上げた笑顔も百点満点天真爛漫だ。少しだけ、羨ましさを憶えた。志摩子には、そこまで素直に感情を表現する術を持ち合わせていないから。だから、きっと。ほんの僅かな嫉妬を悪戯心に変えて、伝える。
「よろしく。後輩の黄薔薇さま」
 瞳を合わせると、微笑がこぼれおちた。クスクス。はじめは小さな笑い、徐々に大きくなっていく。人目もはばからず、二人は笑い転げていた。
 よくよく考えてみれば、不思議だった。腹を割って臨んだ最初の邂逅は、お世辞にも気が合ったとは言いがたい。なのに、こうして笑いあうことが出来ている。そう昔の思い出と割り切れるワケでもないのに。
「あー、オカシぃ。慣れないことするものじゃないわね」
 クリクリとうごく瞳。一秒毎に色を変える瞳が彼女の魅力だと、気付いたのはいつだったろうか。気付けば、違和感なく馴染んでいる自分がいた。変わってしまった自分、それが嫌ではない。だから、志摩子は微笑する。ありったけの想いを込めて、この幸せがむかいあうヒトへと届くように。



 ザァーと枝を揺らし、風が吹いた。はためくスカートの裾をおさえ、驚きの声をあげて突風をやりすごす。それは、きっと春一番。新たな季節を克明に告げる四季の使者。そして、新しい二人の薔薇へ呼び声を伝える。
「志摩子さーーーん、由乃さぁーーーん」
 二人がよく知るヒトの声だった。今代の紅薔薇にして、二人をつなげた掛け橋。福沢祐巳。幸運なシンデレラガールと噂された少女は、魅力に磨きをかけて、薔薇さまに相応しい自身を開花させていた。
 不意に二人の意識の片隅に、新入生歓迎会という単語が浮かぶ。志摩子は、ちょっとした骨休めのつもりで。由乃は、そんな彼女を呼びに。この場に来たはずだった。これも桜の魔力なのだろうか。差し迫った出来事を忘れ、冗談交じりの世間話にのめりこんでしまっていた。
「……時間みたい」
「祐巳ったら。決めたルールぐらい守りなさいよね」
 それは悪態だったけれども、とてもやさしい響きを持っていた。素直だけれど素直じゃない。そんな相反したかわいらしい性質を持つ彼女をみて、志摩子の笑みは深くなる。柔らかな、やさしい微笑だった。
「いきましょうか。白薔薇さま」
「えぇ、黄薔薇さま」
 少女たちは駆け出す。もうひとりの親友の元へと。足を速めながら、志摩子は思う。この素敵な関係を作り出した、最初のきっかけは何なのか。深く考えずとも、答えはこころの中のどこにでも転がっている。

「多分きっと、祐巳さんのせいね」

 唇を尖らせ呟いた彼女の瞳には、暖かな光が宿っていた。








FIN

(041013 作成協力 祐樹さま)


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送