日傘日和パラソルびより



 碧多く残る新興住宅街に彼女の住まいはあった。昭和初期の住宅建築の面影を多分に残す平屋一軒建。そこが彼女のとりあえずの住まいだった。同居する家族はおらず、離れに店子を住まわせるのみ。子供たちが家離れをしていったのではない。彼女には血を分けた実子が存在しない。実子はおろか連合いと縁を結ぶことすらしなかった。居ないものは同居のしようがない。そのような理由が重なって、彼女は母屋に独りきりで住んでいた。

 初見の客に独り身の理由を問われれば、決まり文句の縁がなかったからという言い訳を使う。それすらも彼女にしてみれば多大な譲歩であって。無言と冷涼な視線で返すこともままあった。口を開けば家族は、の質問ばかり。いい加減、上っ面を滑る当り障りのない言葉を返すことすら億劫になってきていた。

 幸い彼女の手元には、父母の遺産がそれなりに残されていたので喰うに困るようなことはない。金銭を使う趣味を持たなければ、共に出かけるような友人もいない。いずれお邪魔するであろう代々の墓に札束を投じるような酔狂な性格もしておらず。子供がいなければ金銭など死後、国に返却されようとも惜しくもない。彼女が人嫌いに拍車をかけ、自宅から足を伸ばさないようになるに、そう時間を必要としなかった。

 だが、何処の世界にもお節介な人種というのは存在していて。彼女の場合だと親類がまさにそうだった。彼女の私宅まで詰め、延々と心配の種を伝えること数時間。善意の行為であり、昔お世話になった事も絡んで。彼女はついに首を縦に振った。ただし。しっかと譲歩を勝ち取った上で、だが。



 
 外は雨。地上の罪を押し流すかのような勢いで、天上の涙が零れ落ちる。夕暮れ時からその傾向はあった。視界の及ぶ全ての空が暗色の雲に覆われ、本格的に降り始めたのは夕闇が薄闇にとって変わられる微妙な時間帯。“遂に”という言葉がこの上なく当てはまるように、空は泣き出していた。
 眉間に三本の皺が浮き出る。彼女は雨が好きではなかった。端的に嫌っていると断言してもいい。明確な理由は存在しない、生理的な嫌悪感を催すのだ。濡れるのも嫌いであれば、雨音や視界に雨の粒が入ることすら嫌がる。まるで“坊主憎けりゃ袈裟まで憎い”を地で往くほどに。そんな彼女の雨の過ごし方は何時も同じ。カーテンをキッチリと閉め、意識を自身の中に閉じ込めて、雨雲が通り過ぎるのじっと耐え忍ぶ。
 今回もそうだった。

 瞼を閉じて、夢現を行き来する。どんなに意識を内向きに絞ろうが、一切の音を遮断するなんてことを出来る筈もなく。夢幻の中で彼女は雨音に身を委ねていた。現実ならば嫌悪感に眉が釣りあがるが、夢の中ならそれなりに心穏かに過ごせる。それも今までの人生で培った逃避の術。
 夢は何時も不条理だ。現実では在り得ざることが容易く展開される。そこに自分の意思なんて物は介入できず、悪戯な眠りの精が皆々の反応を愉しむ為にやっているかのよう。例えば“不思議の国のアリス”の世界に入り込んでいたり、過ぎ去りし日々の忘れたい情景に身を投じていたり。何時も何時も、夢は不条理なのだ。





 セピア色の風景の中に彼女はいた。不条理な夢なのだから現実感の一つも考慮に居れず。彼女は皺くちゃの気難しいお婆ちゃんではなく、青春時代と共にあったリリアン女学園の制服姿で出演していた。夢だというのに……否、夢だからか。映される情景は余りに鮮やかで鮮烈で。仮初の幻影と知りつつも、彼女は心底から笑い泣き叫んだ。初めてなのに初めてじゃない経験。過去の記憶をなぞるように。
 そして、場面は変化する。彼女が最も恐れ、後悔する過去の一場面へと。



 夢の中でさえ雨が降っていた。瞼を閉じる前と同じ空気。降りだした雨は肩はおろか全身を濡らし、おろしたての白いワンピースに歪な水玉模様が描かれていく。それでも雨を避けようという意識は浮かんでこなかった。たった数瞬前にいわれた一言が、彼女の激情に火をつけていたから。
 鬱血するほどの唇を噛む。それは抑えきれない怒りと嘆き双方入り乱れた感情の発露。首元にかかった信頼の証――ロザリオの鎖に指を絡める。その濡れた金属の触感によって、冷静な思考が呼び覚まされることを願って。
 彼の人の唇が言葉を紡ぎだす。言葉が意識の隅々まで行き渡った瞬間、理性の手綱を手放した。

「――!!!」

 自身にも正視に耐えない罵詈雑言。畳み掛けるような悪意の旋律が二人を切り刻む。一人は心の闇その深さに怯えて、一人は些細な信頼を裏切ったことを恐れて。鋭利な言葉は二人。共に、平等に傷つけていく。
 腕が勢いよく振りかぶる。あの人の胸めがけて、手にしたモノを投げつけるために。
 そして。



 そして世界は暗転する―――。





 瞼を開くと同時に心を包んでいた寒さも遠のいていく。目覚めはいつも最悪だ。仮眠をとれば、悪夢に魘され覚醒する。嫌になるくらい定番の悪循環。だが打開策がない以上、甘んじて座りの悪い目覚めを受諾するしかない。寒い。暖まりきらない心奥が寒さに喚いた。彼女は膝に掛けたアイボリーの毛布をズリ上げる。肉体を暖めれば、精神も温まると盲信して。
 外には未だ降り止まない雨の音色。雨どいを伝って流れる自然の音楽でさえも、彼女の機嫌を正位置に戻すには至らない。ロッキングチェアーが身動ぎにあわせギシリと鳴く。眉間の皺は四本に増えていた。



 ふと、彼女の耳が異物を捕らえた。雨音に雑音が混じっている。甲高い少女の声だ。それも単音ではなく、複数の異なる音が重なった和音。
 静謐な空間、時間を邪魔された気がして眉が釣りあがる。カーテンに覆われた窓硝子の向こうに乱入者の気配を捉えた。店子の関係者だな、と彼女は見当を付けていた。にべもない。店子以外に彼女の元を尋ねてくる人物など限られている。否、皆無といっていい。
 人嫌いな彼女を尊重するように、慎ましやかに硝子窓をノックする。耳障りではない程度。それでいて、はっきりと気付かせるように絶妙な塩梅で。やはり、当該の人物は店子の娘だったのだ。
 無視するわけにもいかず。彼女は窓の鍵を外し、僅かなスペースを用意した。

「弓子さん、友達連れてきたんだけどイイ?」
「……」

 四角張った眼鏡に黒髪長髪が如何にも、真面目といった感じの少女。問い掛けに、僅かな顔の縦振りで済ます。

「ありがとう」

 眼鏡の少女も良く知ったもので、気を悪くもせずに顔を引っ込めた。
 一応、家主と店子と言う関係だからある程度のことは知っている。少女の家族関係のことも。やさしい上に家族想いの娘なのだ。その上、気難しい老婆の扱い方も上手い。だからなのだろう。人嫌いの彼女が住まわせるのに同意したのは。
 踏み込みすぎず、離れすぎず。一種、事務的な関係と思えるほどのスタンスが、彼女にとって好ましいものだった。お仕着せの好意など彼女にとっては有害でしかない。




 雨は未だ降りやまず。
 訪問者が去った部屋は寒さが増した感じがした。普段の自分に戻るために、ゆっくりと深く呼吸。酸素を貪ると僅かに肺奥が痛んだ。関節の節々にも風邪のような気怠さ。死の足音が近付いているのだ。
 このまま、ひっそりと息絶えるのだろうか。口を噤んだまま。孤独を抱え、独りきりで。
 寒さが強まった。寂寥感が老いた肉体に突き刺さる。彼女はそっとカーテン裾を捲った。気まぐれだった。今回に限って酔狂にも雨の街並みを目にしようと思いついたのは。
 そこで彼女は目にした、一人の少女の姿を。

「お、お邪魔します」

 初めに感じた感情は何だったか。怯え、戦慄、恐怖、歓喜、共感、反発。どれもが当てはまりどれもが当てはまらない。
 咄嗟に、カーテンを勢いよく閉ざす。他者の存在をはじめて知覚した幼児のように、彼女は逃げ出したのだ。心臓が早鐘のよう。複雑に入り混じった感情が、彼女を突き動かす。アイボリーのひざ掛けを頭から被り、震えた。色あせた瞳から落ちた水滴が、膝掛けの生地に吸い込まれていく。
 逃げ出したというのに。瞼の裏側にこびりついて離れない。水分を吸収してゴワゴワになった制服。白いハイソックスは泥はねでマーブルに彩色されている。広がりきったスカートのプリーツに、下地が透けていたセーラーカラー。一つ一つ鮮明に思い起こせる。生徒指導の教員が見れば卒倒しそうな醜態。酷いざまだったが、紛れもなくリリアンの制服だった。
 それよりも何よりも、記憶に刻み込まれた最大の理由はあの瞳。



 ロザリオを投げ返した自身の表情にそっくりな少女の瞳が―――。





 ロザリオの授受が姉妹スールの始まり。彼女と彼女の姉となった人も例外ではなかった。リリアン高等部において、最も古い伝統の一つである姉妹制度。勿論、彼女が在学していた頃には、もう存在していた。当時、耳慣れない外来語であったスールという音が不思議なほど魅力的で。姉から渡されるロザリオも、一流の美術品のようで。皆が皆、お姉さま、妹という単語に恋焦がれていたように思える。彼女の周りにお姉さまを持たない学友など皆無だった。
 そんな時に彼女は姉となる人と出会った。運命に導かれ、惹かれ合った。そういうべきなのだろう。出会いは偶然でいて必然で。まるで銀幕の一シーンのように、端からみても運命的だった。
 

 光のシャワーが零れ落ちる聖堂。キラキラと七色に変わる光渦の真中に少女は居た。マリア様の目前。両掌を合わせ祈りを奉げる。神は全ての者に平等な愛を注ぐ、そう信じている敬虔な子羊。典型的なリリアンの生徒。

「ごきげんよう」
「ごきげんよう」

 振り向いて、挨拶。其処にマリア様が居られた。
 艶やかな黒髪は流れるように零れ落ち、切れ長の瞳には知性と慈愛が宿る。全身から滲み出る風格は導く者然としていて、見る者の心を奪う。現世に降臨した聖母。それが彼女の第一印象だった。

「なにか……何か御用でしょうか?」

 見惚れていたのは一瞬にも満たない僅かな時間。その事実を取り繕うかのように少女は矢継早に問うた。その答えは微笑みと共に返される。それが余りに気高く美しいものに見えて、彼女は頬を紅く染めた。

「タイが曲っていてよ」
「あ……」

 すらりと長い指が踊る。魔法のように淀みなくタイの結び目を直していく。それを、彼女は別世界の出来事のように感じていた。絵画に閉じ込められたような感覚。願うならばこの一瞬の邂逅が永遠に続くように。瞼を閉じて少女は想い馳せた。


 それが出会い。
 しばらくして。少女は紅薔薇の蕾の妹ロサ・キネンシス・アンブゥトン・プティスールと呼ばれるようになる。





 「弓子」「お姉さま」と。彼女たちは互いにそう呼び合った。リリアン高等部独自の慣習、スール制度。二人はその未だ真新しい慣習を自分たちの為に最大限利用した。年の違う二人が時を共有するに、その慣わしはうってつけの術。自分一人だけが、あの人の存在をお姉さまと呼ぶことが出来る。その優越感という美酒に彼女は酔いしれていた。
 二人は端から見ても似合いの姉妹であって。学内でひっそりと行われていた理想の姉妹ベスト・スールにも選ばれていた。従順な妹に気高き姉。外側から見ても、二人の仲は美しく得難いものに見えていたようだ。当の本人達は世俗の噂などどうでもよく。二人の時間が得られれば、それで良かった。良かったのだ。
 彼女の姉は華族の出自。当時のリリアンでは、そう珍しくもない境遇。かたや彼女といえば、それなりの資産を持っていたものの血統は何の変哲もない一般人。彼女の方が毛色としては異色だった。身分の差は歴然としている。だが、二人はそんなことは全く関係ないと言わんばかりに仲睦まじく日々を過ごす。
 幸せかと問われれば、「えぇ、とっても」と返すほど幸福の真っ最中に居た。


 山百合会の活動は彼女が考えるよりもずっと濃密なもので。学校側の雑用として扱われることもあれば、生徒側の御用聞きとして走り回ることもあった。一日が終ればベットの上に倒れこむことも多々。だが、それでも姉の姿。とりわけ涼やかな笑顔をみるだけ。それだけで力の限り尽くした。それだけで全ての努力が報われると、彼女は信じ込んでいた。

 ロザリオと紅薔薇の蕾の妹という称号の重さに気が滅入ることもあった。何事も普通のラインを超えない彼女にとって、リリアンを代表する山百合会メンバーというのは、気が重くなる原因。それでも、姉に迷惑をかける事とロザリオを手放すことだけは想像の範囲外であって。だから、彼女は精一杯の努力と背伸びを課した。あんな人が紅薔薇の蕾の妹だと笑われないように。



 こんなにも二人が惹かれあったのは、お互い無い物を持っていたから。一つの円に鋏を入れ、分たれたのが自分たちだと信じて疑わなかった。それほどまでに、欠けたパーツがピタリと重なっていた二人。

 けれども。急速に深まった仲は冷えるにも時間を必要としなかった。





 彼女の元に一報が届いた。春が遠ざかり梅雨間近という季節の変わり目のことだ。
 変哲のない風景を映した手作りの絵葉書。ダイレクトメールに混じっていたそれを手にした瞬間、彼女は訝しんだ。貰う宛なぞなかった。郵便局の配送手違いだろうと億劫ながら、紙面を返した。
 裏面には差出人の住所。表面に風景フォトグラフが印刷され、絵に合わせる様に白筆でたった一言。「逢いたい」と記されていた。


 それを何と表現すればいいだろうか。
 落雷が落ちる。待ち望んでいた手紙、遅すぎる手紙。彼女の短くない人生で一、二を争う出来事であったのは言うまでもない。

「……」
 
 絵葉書の住所を注視し続けた。東京近県の耳慣れない某所。個人病院から投函されたものらしい。差出人に昔の姉の名が記されてあった。


 小笠原彩子。


 お・が・さ・わ・ら・さ・い・こ。
 一字一句しっかりと。舌の上で転がすと奇妙なほど慣れ親しんだように、肉体の隅々へ浸透していった。結婚していたのか、そんな漠然とした感想が過ぎる。彼女自身は結婚しなかったが、名家の娘であるあの人はそう我侭を言える立場でもなかったのだろう。
 これだけは、はっきりと断言できる。あの人の人生は幸せな時を重ねるに到らなかったに違いない。つき返したロザリオは信頼の証。いつも何処かで怯えていたに違いない。幸せだった筈の家庭に一筋の罅を入れてしまったのは自分。
 暗い微笑を浮かべると、気持ちが少しだけ晴れた。少なくとも苦しんだのは自分だけではないのだと実感できたから。




 だが、思い出というのは残酷で。
 憎らしい記憶だけ蘇ってくれれば、憎悪しつつ朽ちていけるものを。笑顔まで、幸せな記憶まで。一緒に蘇らせてしまう。


 「弓子」と奇麗に発音するお姉さま。

 「弓子」と微笑みかけるお姉さま。

 「弓子」とすこし怒り気味なお姉さま。


 絵葉書をしっかと掻き抱く。あの人と共に私は在ったのだと。あの人が居たからこそ私は生きていたのだと。
 あの日以来開きもしなかった白いパラソルも抱えて、彼女は泣き崩れた。今だけは、今だけは。過去を懐かしんで泣いてもいいのだと必死に言い聞かせて。言葉にならない涕泣が部屋中に響く。叫びは止みそうになかった。

 いつしか、彼女は夢中を彷徨う。




 セピア色の風景が徐々に鮮やかになっていく。眩い太陽の光、青々しく高い空。少し濁った雲に、碧光る若葉。

「……眩しい」

 手を翳し、太陽の柔らかい光を遮る。純白のワンピースに身を包み、大切なロザリオを首から下げた少女。精一杯のおめかしをしたその姿は、雑多然とした駅前の公園にとても似つかわしい。
 寸分違わぬ過去の光景に彼女は居た。それが夢と知りつつ、彼女は待ち人の到来を待つ。哀しい別離を迎えようと知りつつも、待ち人を待つ。卒業前の木枯らしが吹く季節。未来に向けて別たれる時間が迫っていた。寂しさを抱えつつ、自立を試みようと努力していた彼女。今回はその最後の節目と成り得る日だった。勇気を振絞って、忙しいはずの姉を誘う。


 その返事は「えぇ、いいわね」と微笑みで承諾された。


 少女の右手には、一本の日傘。まっしろい無地の日傘には、小さなフリルが拵えられていて可愛らしい。一目惚れだった。小さな雑貨店。西洋の香がする店内で、それを見つけた時、彼女は一目で気に入ってしまったのだ。自由にならないお小遣いの中から捻出して、やっと手に入れたパラソル。少女には、ささやかな願いがあった。他人が聞いたら一笑に付すかもしれない、些細な願い。

 この白いパラソルを差して、この街をお姉さまと一緒に歩ければ。


 待ち合わせは駅近くの公園。賑やかだが活気のある雑音が遠くに聞こえ、その割りに緑に囲まれた憩いの場は静謐な時間に満ちていた。包装を解いたばかりの真新しいパラソルを小脇に抱えて、少女は人を待っていた。待ち時間も愉しいもの。彼女は、今日この日が最高の思い出になることを疑っていなかった。

「お姉さま、まだかな」

 公園の中央に設置された公共時計に目をやる。5分おきに時間を気にしているのだが、当の本人は気付いていない。少しだけ、不安が掠めた。彼女の姉は忙しいから来られなくなったのかもしれない。約束の時間はまだなのにモクモクと不安の雨雲が湧き出てくる。



 約束の時間まで後十分。それなのに、天気は徐々に下っていった。少女の涙腺も天気と一緒で緩んでいき。姉が到着する頃には土砂降りになってしまっていた。白いワンピースは水滴を吸ってゴワゴワ。丁寧に梳いた髪も台無し。それでもまっしろな日傘を開くことは出来なかった。姉と一緒。それが一番重要だったから。
 待ち合わせ場所で濡れ鼠の格好のまま、めそめそと少女は泣き崩れてしまった。

 なんで、こうなるのだろう。ただ、お姉さまと思い出を作りたかっただけなのに。
 マリア様は、そんな願いすら聞き届けてくれはしないのか。

「傘を差せばよかったのに」
「でも……」

 白いハンカチがやさしく彼女の濡れた額を拭いていく。顔を上げれば苦笑を浮かべた世界で一番好きな人が居た。

「まったく……貴方は。もうちょっと上手くやりなさい」

 おそらく、いつもの何気ないお叱りの言葉だったのだろう。だが、彼女にとってそれは禁句だったのだ。
 その言葉を聞いた途端、彼女の内面で何かが壊れた。姉への親愛や美しい過去の思い出が、すぅーっと引いていき、頭の中がまっしろな怒り一色に染め上げられる。

 私は貴方を待ち望んでいたのに。
 貴方と歩む、そんなささやかな願いはお姉さまにとっては、どうでもいいことなのだ。


「――!!?」

 何を口走ったのか、どうしたのか。彼女の記憶にない。薄れてしまっているのではなく、本当に最初から無かった事のように抜け落ちてしまっているのだ。それでも人間の記憶というのは、不思議なもので。姉妹の証を投げつけた後の、あの人の表情だけはしっかりと覚えていた。後悔と失望を絵に描いたような、姉の表情を。





 気付けば、絵葉書の文字が滲んでいた。





 古びたティーポットを戸棚の奥から引っ張り出して、お茶会の準備をする。久々にご機嫌な空模様に、奇妙な予感が彼女を動かしていた。嬉しい来訪者がある、そんな予感。果たしてアポイントメントのない客人は来た。

「あ、あの―――」

 落ち着きなく視線を彷徨わせる少女。キッチリとリリアンの黒い制服に身を包み、サイドにある2本の髪がリボンと共に身動ぎにあわせて揺れる。

「わかっていますよ」

 人差し指を一本だけ立てて、唇に寄せる。ツインテールの少女は、その瞳をパチパチとさせて驚いていた。なんとなく、彼女は童話に出てくる魔法使いにでもなった気分になった。微笑みが意図せずして零れ出す。こんなにも屈託なく自然に笑いが出てくるのは、本当に久しぶりだった。


 
 和風と洋風が混在した無節操な部屋。心地の良い場所だった筈のリビングが、無性に気になっていた。相手の少女には、どう映るのだろうか。無頓着に過ごしていた今までを、これほど呪った事はないかもしれない。 

「先日は失礼したわね。雨で気分が優れなかったの」
「え、はい。いえ」

 少女を背にして、彼女は言葉を発する。カチャカチャと茶器が少し喧しく鳴いた。
 乳白色に染まった液体を並々と注いだカップを、各々の目前に置く。持て成しの仕方など、遠い昔に置いてきてしまっていたから、彼女は不安でしょうがなかった。山百合会での作業の記憶を掘り起こし、取り繕っていたが。

「どうぞ、お口に合うかどうか……」
「いえ、いただきます」

 お茶会を催したものの、二人は加東景を仲介とした間接的な知り合いでしかない。彼女たちは自己紹介から話を切り出していく。偶然と言えば、偶然。二人には共通点が合って。リリアンの卒業生と現役生ということや、名前が似ていることで、話にも華が咲いた。



「気になる存在だから、強いことを言ってしまう時がある。そうよ、そうだわ……」

 助言のつもりで口にした言葉に、彼女は惹きこまれていた。まるで算数の計算が、簡単な方程式だけで解けるとわかったときの爽快感。暗闇の中に一筋の光を捉えたときの希望。
 なんだ、こんな簡単なことに捕らわれてしまっていたのか……。


 目の前が開けたと感じていた。
 彼女は数十年ぶりの安眠に身を委ねる。祐巳の傍では、今までの苦悩や恨みもうっすらと和らいでいく。

「お姉さま……ゴメンナサイ」

 嬉し涙を零したのは、人生で初めてだったかもしれない。









 
Epilogue



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