「おいでー、おいで」

 猫撫で声に誘われて、子猫は慎重に近寄っていく。差し出された指。小さな黒鼻をひくひくさせ、匂いを嗅いだ。知っている生物の匂い。安心したのか。その身を委ねた。まるで、母猫に甘えるように。

「……ゴロンタは変わらないね」

 慈しむように縞の毛皮を指がなぞる。彼女は変わった。冷めた瞳はそのままに、少しだけ世界を。ほんの少しだけ見直した。二人の世界を棄て去った訳ではない。彼女の事を思い出すと今も、胸の奥がジーンと痛みを覚える。伸ばした手を繋ぎ、閉じた世界に篭もっていたいという欲求も存在する。ただ、すこしだけ。思い出しただけ。斜めからじゃなくて、真正面から世界を見つめることを。


 ただ、願うなら。
 生きる力を分け与えてくれる存在が身近に居てくれれば。


 脳裏に、少女の姿が浮かんだ。サクラ舞い落ちる世界で初めて会った“群れに入り込めない狼”のような少女。かぶりを振る。居なくなったからハイ、次。そんなこと出来る筈がない。例え、特別なモノを感じていたとしても。
 ゆったりしたリズムにアーモンド型の瞳が細まる。自分が楽しむのではなく。猫を第一に考えたその撫でる妙技に、ゴロンタはあっさり陥落した。小さな瞼は段々と閉じられ、ゴロゴロと喉まで鳴らす始末。自由を愛する猫が聞いて呆れる、かもしれない。

「うふふ……」

 彼女は、心奥から微笑んでいた。平凡な日常がとてつもなく愛しい。見上げれば木漏れ日。外気は爽やかかつ穏かで。怠惰な午睡を愉しむには持って来い。太陽光を全身に受け、彼女は眠りの世界へと誘われていく。





 
NoCount.






 音楽室に彼女以外の人影はなかった。無理を言って部活の練習も止めてもらい、皆に帰ってもらったのだから当然だ。一段高くなった壇上へと歩を進める。その際、深い色の制服が僅かに翻った。
 練習するためと理由をつけた、気が乗らないのに。変わらない日常に彼女は飽いていた。歌うことを中心に置いた生活。想いを歌い上げること事態は、好ましい。率直に好きと呼べるだろう。ガムシャラに、真直ぐに。一つの道を突き進んでいたけれども。


 ふと。背後に置き去りにしたもの、切り捨てた生活が羨ましく思える時間もある。



 自分の道に迷う、というのだろうか。彼女は悩んでいた。自分の進路という、誰にも先が見えない向う側について。
 何も気にせず、ひたすら前を向いていられた頃は良かった。自分の才能が伸びていく、上達が目に見える時。観客を感動せしめた、あの喜びは何物にも変えがたい。なのに。どうしても迷っている現在の自分がいた。



 リリアンの音楽室には、立派なグランドピアノがある。学内設備としては、少々不釣合いなほど高価な骨董品。お嬢様学校だからこそ、本物に触れなければならないのか。
 傷ついたボディに、少々色あせた塗装。アンティークというよりも、古ぼけた楽器のように傍目には見える。高価なものだと、素人は思いもしまい。だが、その実。見る人が見れば、眼が飛び上がること請け合いの由緒正しい一級品。
 今まさに。未来の卵候補によって、その美しい音色を歌い上げようとしていた。

 蓋を持ち上げ、鍵盤の指を置く。軽く触れるだけ。卵を掴むよう繊細に。丸くして。幼少の頃、レッスンの一環として教え込まれたピアノを弾く上での基本。細やかな指が鍵盤上で踊ろうとして、止めた。作法やルールを無視して、人差し指だけを差し出す。

 白鍵が歌う。

 正確無比極まりない一音。防音設備の行き届いた部屋に響き渡る。情感を込めず、ただ。子供の遊びみたいに白鍵上を一本の指が滑っていく。ど、れ、み、ふぁ、そ、ら、し……戻って、ど。

「……さぼっちゃったな」

 他愛もない現状への反抗。何が変わるという訳ではないけれど。何かせずにはいられなかった。サボりという行為で発現した事については、少し子供っぽかったかな、なんて感想も浮かんでくるが。





 窓から見える景色は、いつも通り。高い空と白い雲、お日様は穏かに辺りを照らしていた。教壇の隅に置かれたロサ・カニーナの花弁も、光を一身に浴びて生命力に溢れている。曇っている彼女とは大違い。
 何も変わらないようで、どこかが変わっている。そんな風景。過ぎ去った時間は戻らない。そんなことは理解していた。何をせずとも手足は伸びていくし、髪は伸びていく。自分でも気付かぬ間に。いつしか老いて行くのだろう、きっと。

「……日常、ね」

 眩い光に、手を翳しながら呟いた。空気みたいな物なのだ。当たり前のように享受していて。無くなると知ったら、掛け替えのない物が欠けたように惜しんでしまう。切り捨てるものの名は、平凡な日常。新たに手にするものは、夢の実現という可能性の一片。

 選択することに躊躇っていた。進むか、立ち止まるか。二つの選択肢しかない。両方を選ぶのは欲張り。どちらも駄目になってしまう可能性が高い。だが、今までのように切り捨てるには、彼女は大切な物を詰め込みすぎていた。




 自分の中身を豊かにしなさい、最初に師事した先生はそう云った。彼女の内にあった稀有な才能を発見し、伸ばしてくれた。彼女の歌の基礎はそのとき築かれたと言っていい。
 唄には、歌う者の心がそのまま現れる。お年を召した師の歌には、経験から来る情感が盛り込まれていた。無論、当時の彼女に、すべて理解できたわけではない。
 卓越した耳を持っていた彼女。オモイの欠片を感じるには、充分。歓喜の涙と、感動に打ち震える肉体が証だった。

 そして、決意がその身に宿る。歌いたいという、原初の欲望。それが、彼女をここまで歩かせてきた原動力だ。
 




 師の教え通りに行動してきたつもりだ。感動を、喜びを、愛しさを、切なさを。経験したすべての感情が、彼女の歌を彩り鮮やかに際立たせた。だが逆に、その経験が彼女を縛っている。切り捨てるには忍びないほど、現在の環境が惜しくなっていた。そこで堂々巡り。夢か現状維持か。彼女にとっては至極難解な問題が、脳裏でタップダンスを踊っていた。

 レッスンにも身が入らない。どこか気持ちが抜けた旋律は、やはり皆が感じ取っているようで。言葉にせずとも行動で、心配ということをひっきりなしに伝える。逆に気を使われる方が、彼女にとっては辛い。腫れ物扱いされるのは、苦痛。独りになって考える為に、小細工までして居残ったというのに。一向に、結論が出る気配は存在しなかった。

「……ハぁッ」

 艶やかな溜息も零れようというもの。ガラスの向こう側は晴れ渡っているというのに、彼女の心は曇り勝ち。悩みの雲がモクモクと梅雨真青な勢いで増幅していた。だから、だろうか。顎を落とした先の延長線上。一面の緑に、墨をこぼしたような深黒の色彩を見つけたのは。

「……」

 無言で彼女は踵を返した。方角は校舎裏。人気の少ない場所でもある。どんな変わり者がいるのだろうか、どんな変わったものがあるのだろうか。好奇心が騒ぎ出すまま、彼女は歩みだした。





 校舎裏に足を踏み入れたことは初めてだった。噂では、トラ毛の子猫が住み着いているという。リリアンの校舎は東京近郊にしては、緑が多い。おそらく餌にも困らないのだろう。唯でさえ、餌を与えてくれる生徒たちがいるのだから。
 名前はゴロンタだったかメリーさんだったか。クラスメートや後輩から漏れでた噂からの情報では、信憑性のない事この上ない。耳にしていたものの、実際に行動することまでは思い至らなかった。だから、彼女にしてみれば。ちょっとした冒険気分。

 若葉茂る木々をかき分け、土が剥きだしの地面を歩く。新緑が芽生え始めた季節の空気は、どこか穏かで。歩を進める毎に、新しい自分が形作られていくようで。悩みも一緒に消えうせていくかのようだった。

「……鳴き声、かしら?」

 小さな一声を、鋭敏な耳が捉えた。ナーと。刻み込まれた本能が、保護欲を駆り立たせる幼猫期の鳴き声。誘われるままに、声の方角へと足を踏み入れる。ほとんど誰も踏み入れないのだろう。獣道のような狭い道があるだけ。学園内とは思えないほど、悪路だった。いよいよ探検じみてきた。伸びだした枝葉を傷つけないよう慎重に一歩を進める。木漏れ日を受けながら、視界を被い尽していた木々の茂みを抜けると。



 開けた場所へたどり着いた。風の通り道なのか。少し強めの微風が彼女の黒髪を揺らした。背の高い木々が覆うことによって、人目にはつかず。緑葉の隙間から落ちてくる光によって、充分すぎるほど明るい。まるで、大舞台に備え付けられたホールのよう。大自然が生み出した天然のコンサートホール。衝動のまま、彼女は瞳を閉じた。深く空気を取り込む。そして。内面世界から音を引きずり出す。

「ah――――――」

 高音を、ひとつ作り出す。小さいが新鮮な感動を込められた音は、緑に響き渡り吸い込まていく。瞼を開けた表情には、歓びの色がはっきり浮かんでいた。

「……うん」

 納得良く音を出せたのが嬉しかったのか。悩みの影は蔓延っていない。新しく見つけた秘密の場所を誇るように、彼女は周囲を見渡していく。そこで気付いた。
 円形状の広場中央に、すぐ判断できるぐらいの距離に。リリアンの制服が横たわっていた事に。そして。小さな鳴き声もその辺りから聴こえる事に。

 整った顔立ちに、微苦笑が浮かぶ。最初の目的を忘れて、思わず歌ってしまったこと。暢気に眠りこけてる相手。双方に対する呆れ。いつになくリラックスした面持ちで、件の暢気な人影へと近付いていった。
 そこに。


 白薔薇さまロサ・ギガンティアの無垢な寝顔がそこにあった。


「どうして……」

 驚きが掠れ声となっていた。外国のトップモデルのような彫りの深い顔立ち。魅力的な深い瞳は瞼の奥に仕舞われている。安らぎに満ちた表情。誰も、薔薇さま方も。見た事ないに違いない。
 これでは、まるで。盗み見たようなもの。彼女はこんな形で、聖の特別な表情を見たかった訳でない。それだけは断言できる。一番になりたかった。特別な人になりたかった。でも、こんな形は違うのだ。彼女の内に潜んでいた、気高く醜いオモイが暴走する。
 真正面からぶつかって好きだと。そう言われる事にこそ意味があった。なのに、こんな仕打ちはあんまりだった。

「どうして」

 再度呟いた。もはや彼女にも、何を口走っているか。正常に判断できていない。ただ、壊れたテープレコーダのように意味のない言葉を呟いているのみ。瞳から入ってくる光景だけで、彼女の意識は手一杯だった。あどけない寝顔。眠り姫よろしく夢の世界へ留まり続けているアコガレの人。美しい一枚絵に少しでも近付きたくて、触れたくて。
 彼女の唇は、白薔薇の匂いに惹かれていく。



 そっと。薄い頬に唇を落とした。一秒にも満たない僅かな時間。それが彼女には永遠の時に感じられた。ナーと一鳴き。迷い込んだ透明な世界へ罅が入った。動きはじめる、時間。壊したのは誰であろう、眠り姫の懐に抱かれたままの子猫。
 宝石を移植したような透明な瞳が、ジッと彼女を捕らえていた。瞬きもせず、心意を見極めんと視線を投げかけている。頬が昂揚し、紅色に染まった。羞恥心と動揺で、小動物と目線を合わせることすらできない。

 ほんの少し。触れ合った唇を指で抑え、彼女は後退あとずさる。そして。脱兎の如く駆け出した。カウントしない、絶対しない。その呟きを一心に唱えながら。





 歌姫が過ぎ去った後。子猫は身動ぎし、小さな舌で頬を一舐めした。そのざらついた感触に、眠り姫の瞼が微動する。

「ん……ねちゃったか」

 ふわぁと欠伸をひとつ。大口を開けるその姿。淑女たるリリアンの生徒には、あまり……。というか全然見えなかった。

「おはよう、ゴロンタ」

 懐の小さな生物に挨拶。何事にも型破りな彼女には、このような動作が似合っていた。極めて自然に見えるから不思議だ。ゴロンタもゴロンタで言葉が判るかのように。ナーとご挨拶。主従関係というよりは、息のあった友達同士という感が強い。

「ん――」

 抱いていた手を外し、中空へ伸ばす。布団も何もない地面に寝ていたからか。そこかしこが軋んだ嫌な音を立てた。ついでに、首を左右に倒して、固まった筋をほぐす。懐に、生命の鼓動を聞いていたからか。目覚めは良好。心地よい眠りを満喫した。

「ナー」
「行くの? じゃ、またね」

 拘束から抜け出した子猫。首だけを振りむき、鳴いた。別れの挨拶と取って、聖は笑顔で見送る。引き止めることはしない。猫は自由気ままに生きる方がなによりも“らしい”と、彼女は知っているから。
 種族を超えた友人が去った後の空間は、どこか物足りなかった。スカートや制服についた土埃を叩き、自身もまた在るべき場所へと帰ろうとする。ふと、小鼻を引くつかせた。

「何だろう、この匂い?」

 鼻腔をくすぐる僅かな香。知人たちの香りとは違う、ゴロンタのものでもない。彼女自身、香水なんてつけない性格。嗅ぎ覚えのない匂いに、暫し腕を組んで熟考する。
 何となく花の香りのような気がしていた。無機質で冷たい感じのする合成香料というよりは、むしろ。薔薇の館の空気に近い。サロンで嗅いだこともあるような……。薔薇科の香りに共通する癖みたいなものが感じられた。

「……まっ、良いか」

 考えても仕方がないと諦めて、彼女は帰路へとついた。




 No Count.










 END

(初版040619 作成協力 祐樹さま)
(修正040621)

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