荒い呼吸音が狭い室内に響く。小粒の雫が猫額に浮かぶ。隣にいる少女も似たような状況だろう。漠然と、気配と音だけで察した。外界から響いてくる蝉の声。唸るようなジャンボジェット機の騒音が追従する。人工自然を問わない無造作な音楽。これぞ、“日本の夏”と万人が認めるくらい、らしい絵だった。
 しかし、外界からの音が耳朶に届くたび、少女の柳眉は釣り上がっていく。まだ大人と公言するのが憚れる年代だからだろうか。全体的に肉付きの悪い肢体の持ち主だ。彼女の肉体は悲鳴をあげていた。それも一箇所ではない。膝やら肩やら手足やら、到るところが、だ。
 身体と外気が溶けて一つになってしまいそうな擬似感覚。脳をそのまま茹でられているような妄想。不快という言葉を形にして煮詰めたら、きっと彼女の置かれた状況に化学変化するだろう。
 現状に耐えかねて、少女は薄い唇を開いた。

「……のりこ」

 彼女自身驚くほど、その声は弱弱しく頼りなかった。普段の清廉ささえ感じさせる美声は霞みと消え、罅割れた響きが鼓膜にて転がる。濁音を発した喉に違和感が絡みついていた。まるで薄汚れた狭い管に無理やり風の流れを作り出しているよう。器官が既に壊れてしまった錯覚すら憶える。その音は、まるで本来の用途外の使い方をされた時代遅れなテープレコーダー。志摩子は肉体の異常に気付き、愕然とした。彼女の肉体は弱りきっている。

「乃梨子」

 関節の奥まであぶっていく熱は、静けさが冴え渡る山のごとき精神を持ってしても耐えがたかった。それでも尚、倒れ臥した痩躯に渾身の力を込めた。刀折れ矢尽きるとも倒れたくはない。伝えたい言葉を内に秘めている限り、倒れたくはない。愛しの、最愛の妹に伝えなければ。彼女を動かすのはその一心のみ。
 意志の力が蓄積された熱を上回る。徐々に、彼女の肉体は意識の命令を受け入れる。それは身動ぎともいえない僅かな動き。5cm……いや、3cmあるかないか。小さいけれど克己の一念を持ってした、精神の諸動。

「乃梨子、ありがとう。ごめんなさい……私、もう」
「し、志摩子さんー」

 ロングの髪が宙に散らばる。平素、愛くるしい光を放つ瞳は閉じられ、小さな瞼には小粒の汗が滲んでいた。もう一人の少女は駆け寄り、その細い肩に手をやる。しっかと抱きしめた。暫し、極上の美術絵図のまま時は流れる。



 志摩子の頬を一滴の汗が伝っていた瞬間。閉じられていた瞳が僅かに開き、半眼となった。彼女の視界全てを埋めるような形で、黒いおかっぱがいた。細身の肉体に似合わない、見た目よりもふくよかな胸に顔を埋めている。暑苦しい。彼女が思ったは原始的な感覚。すなわち快か不快か。彼女が行動するに、それは単純ではあったが強力な理由付けとなりえた。
 焦点が合っていない瞳孔は、まるで正規の手順を素っ飛ばしたガラス玉のよう。いつもの穏かな輝きは失われていた。危険な兆候である。普段の乃梨子なら気付くだろう。だが、彼女もまた酷暑のため冷静な思考を失墜していた。
 志摩子の座った目が、どことなく剣呑な域に達した時。白磁の腕は煌いた。

「……暑いわ」

 おかっぱが放り投げられました。








夏は人を獣にする








 気怠い。茹だるような空気は重く、少女の肌に汗の球を浮かび上がらせる。こんな時、都会人のとりうる行動は、単純明快だ。少しでも風通しの良い格好をし、涼やかな場所を探しまわる。これに尽きる。乃梨子も例外ではない。これが良家淑女の誉れ高いリリアン学徒か。そう疑問を憶えるほど、だらしない姿でのたうちまわる。フローリングを転げ回る。ソレもコレも一重に“涼”を求道するが、ゆえ。彼女は崇高なまでに道を求める、求道者なのだ。

「……暑ぃ」

 寝返りを打つたび、重い空気が肌に纏わりつく。若緑のタンクトップは濃緑色に染まり、カットジーンズの中は蒸して凄いことになっていた。不快指数は鰻上りに最高記録更新中。その鰻もすぐさま蒲焼になってしまう絵が彼女の脳裏に浮かんだ。……きっと、この暑さのせいでマトモな判断が出来ないからだろう。

「本当に……暑いわね」

 隣を仰ぎ見ると、彼女の姉もまた同じような格好でへばっていた。白いワンピースの裾が提灯のように広がっている。なのに、どうしてだろうか。額に浮かぶ汗の雫も、張り付いた数本の前髪も、だらしなく臥している姿さえ。どこか上品に見えた。全くもって美人は得だよね。変な感慨を覚えた乃梨子である。

「ね。志摩子さん、いい加減、どこかで涼もうよ」
「あら、今日は乃梨子のお宅にお邪魔するって決めたのだから」
「でもさ……」
「今更、暑いからって反故するわけにもいかないでしょう?」

 諭す言葉にも力がない。だというのに、その決心は岩よりも固いのだ。ココ数ヶ月の付き合いで、姉の性格をそれなりに掴んでいた。柔和な印象でありながら、頑固者。西洋人形のような容姿を持ちながら、嗜好は和びいき。敬虔なクリスチャンでありながら、実家はお寺。藤堂志摩子という女性の魅力を語るに、そのアンバランスさは外せない。

「頑固な志摩子さんも素敵だよ。でもさ、それにも限度ってモノがあるよね」

 口の中で留まるように呟いた。自分の姉を素敵だと素直に表現するのも、気恥ずかしい。その上、何ら建設的でもない愚痴を聞かせるのも憚れる。ましてや当人への愚痴とあっては。その結果、積もり積もった不満は不明瞭な音と成り果てた。

「何か言ったかしら?」
「ううん、別になんでもない」

 それを受けて、発せられた志摩子の問いかけ。猛暑に根を上げてい乃梨子の声帯は、低く響く声色で答えた。ともすれば聞いた者へ、自身の隠しきれぬ不平を感じせるほどに。

「……ごめんなさい。私、乃梨子に迷惑かけてるわね」
「そんな事っ!? そんな事ないよ、志摩子さん。私、お姉さまと一緒にいられるだけで、嬉しいもの」

 報いは顕著にやってきた。その美しい面を伏せて、哀しさを表現する姉。焦った。これ以上ないほど乃梨子は狼狽した。悲しみに曇る志摩子の顔ほど、彼女を揺さぶるものはない。恥かしさや不満をうっちゃって、心情を吐露することに忌避感を抱かないまでに。

「……乃梨子」
「お姉さま」

 二人の視線が重なった。そして、場面は冒頭へと繋がる。





 二人の少女が暑さに根を上げているのにも、れっきとした理由があった。暑いのだ、とにかく暑いのだ。今年度は例年になく酷暑だった。通りを歩けばシャツが汗で濡れそぼり、室内でクーラーをフル回転させても、ジットリと汗が吹き出てくる。すわ、異常気象かという考えが街往く人間の脳裏に浮かんでいた。二人のいる部屋にも極暑は訪れていた。否、快適な居住空間として致命的な欠陥を抱えていたから、その不快さも一入だ。
 少女らの生命線、頼みの綱は唯一稼動中の人力扇風機のみ。仰ぐと、もれなく熱風がそよ風となるニクい奴である。……またの名を団扇という。少々、原始的な夏の快適アイテムではあったが、多少なりとも不快指数を下げている気がしないでもない。勿論、気休め程度の効力しかないことは、他ならぬ肉体で判断がついた。しかし“心頭を滅却すれば火もまた涼し”とも言うし、要は気の持ちよう一つではなかろうか。藁にも縋る想いで精神論を持ち出す少女。いと哀れだ。

「暑ぅい」
「暑いわね」

 呟きの音が跳ね上がる。どうやら、脳の一部が湯だって声帯の機能に支障が出ている模様。雅を形にしたような姉は、傍目には平静を装っているのに。信心深さが影響しているんだろうか。しかし、それでは先ほどの暴挙の説明にならない。暑さに犯された明晰な頭脳は、胡乱なことさえ思いつく。投げ捨てられないよう微妙な距離を保ちつつも。

 何処かへ逃避すれば、たやすく涼を求められるだろう。その程度の判断は熱に茹った意識でも判別ぐらい、つく。しかし、その提案は姉に却下されたばかりなのだ。それを理解していながら空想に浸るのは、どだい建設的な行為ではない。そもそも何故、灼熱地獄を体現した自宅に縛り付けなければならないのか。簡単な話だ。お留守番というやつである。
 同居人であり大家である乃梨子の大叔母。菫子さんは“涼”を求めて旅立った。七月の半ば辺りの事である。同伴者はリリアン時代の友人とだけ耳にした。何でも、それなりにブルジョワな人らしく、避暑地の代名詞な軽井沢に別荘を持っているらしい。今ごろはきっと、木漏れ日の差す木陰で優雅に睡眠中だろう。……乃梨子の心に嫉妬という炎が灯ったのは言うまでもない。
 それだけでは留まり続ける理由にはならないだろう。事実、菫子さんが旅立った後、何回かマンションを留守にしていた。もっぱらお姉さまとの教会&仏像めぐりのフルコースで、なのが年頃の娘としては灰色気味だったが。

 今夏一番の最高気温記録更新中の今日に限って、出掛けないのは志摩子との約束があったからだ。朝から晩まで何もせず二人一緒にいて、枕を並べて寝よう。そう、口にして二人は小指を絡ませた。

 そして今に到る、と。何もこんなくそ暑い日を選ばなくても良かったのに。乃梨子の呼吸にこっそり溜息がついてまわる。菫子さんの優雅な休暇に比べ、二人の置かれた状況は悲惨極まりない。永年、稼動していたクーラーは故障中。扇風機も保障期間を過ぎての酷使に根を上げたのか、プスンと音を立ててストライキ。どちらも素人な彼女の及ぶところではない。早々に諦めて、電気屋さんにコールするものの……ある意味、お決まりの言葉を投げかけられた。


 曰く――「なにぶん忙しいもので……お時間頂きますが良いでしょうか?」


 ここまで不運が続くと笑うことしかできない。誰かが何処かで、乃梨子の運を吸い取っている。そんな空想すら信じられてしまう過酷な状況下だった。幸運を吸収されている。何とはなしにクラスメイトのツイン縦ロール娘を思い浮かんだのは、果たして貧乏人の僻みだろうか。ブルジョワ松平は家族と共にオーストラリアへ旅行中らしい。乃梨子の心にどす黒い感情が過ぎったのは言うまでもない。



 拳をぐっと握りこむ。閉じた掌に仕舞いこまれたのは、紅蓮の怒りという名の尊き意思だった。燃え盛る情熱の如し嫉妬を胸に刻み込んで、仕返しを決意する。しかし、そんな感情も長くは続かない。状況が赦してくれないというべきか。

「あぅ……」
「だ、大丈夫、乃梨子?」

 突発的な立ち眩みが乃梨子を襲った。臥しているのに、立ち眩みとはこれ如何に。

「怒ったら熱があがったよ……」
「良く判らないけど、それは大変ね」

 最悪だ。感情すら抑制される環境。抑制された感情がストレスを生み、不快指数を上昇させる。典型的な悪循環だった。少女に許されているのは、ただ床に臥して時間が過ぎ去るのを待つのみ。時が経てば、日は翳って過ごしやすい状況下になるかもしれない。もしくは、あわよくば。風が吹いたり、雨が降ってきて、少しでも生きやすい空間になるかも。

 極限近くまで追い詰められた結果。楽観的観測、希望的観測に縋るしかない乃梨子だった。





 渇いていた。喉内粘膜が癒着したような触りの悪い感触がある。喉がカラカラに渇えていた。たかが、喉の渇きと侮ることなかれ。人の身体は80%が水分で構成されている。砂漠での最大の死亡要因は水分不足による脱水症状。砂漠と猛暑、一緒くたにするのはどうかと思えるが、乃梨子にとってはいのちの危険だった。
 事態を打開すべく彼女は、冷蔵庫と俗称される魔法の宝箱へと這って行く。その中に乃梨子の生命を救うモノ、生命の源、夏の風物詩、日本人の心、猛暑の必需品が収納されている筈だ。残り少ない精神力と体力を割りさいて、まさに渾身の匍匐前進を行なう。すべては生き延びるために。

「み、水」
「乃梨子。その格好、すこし怖いと思うの」

 姉の声も耳に入らない。いや、入っているが意図的に無視しているというべきか。生命の危機なのだから、少しは多めにみて欲しいというのが本音だった。

「つ、着いた」

 床を這いずる事、五分少々。乃梨子は目的へと辿り着いた。そこに到るまで様々な困難が有った。逆らいがたい誘惑を伴なったローレライの歌声志摩子の言葉聳え立つ断崖絶壁の険しい山脈室内外を隔てる段差数多の冒険者の屍で彩られた死霊の墓場家具の下に隠れていた虫たちの残骸。気分はロールプレイングゲームの勇者である。そして、今、魔法の宝箱は彼女の目の前で開かれようとしている。

「おぉ、至宝の財の数々よ〜」

 無表情のまま、平坦低音のオペラ調で呟く乃梨子。少しばかり恐怖心を煽られる。
 開いた扉を前にいささかも待てない、といった感じでその日本人形のような顔を突っ込む。かなり切羽詰っているようだ。形振り構っていないのがその証拠。



 乃梨子は、まず扉側の飲料入れを確認する。作り置きの麦茶が入ったプラスチック容器はそこに置いておくのが習慣だった。半分ほど減った1000ml牛乳パック、菫子さんの晩酌用缶ビール、既成のそうめん用ダシつゆの瓶……目を凝らす。ない。もう一度、確認する。牛乳パック、缶ビール、空白、ダシつゆ。やっぱり、ない。

「どして?」
「……こ?」

 いつも置かれている場所に見慣れた容器は存在しなかった。その分だけ、ポッカリとスペースが空いている。結論は簡単に出せるだろう。夏の必需品、麦茶は作り置き分がとうに切れてしまっていた、と。乃梨子の視界が1ランク明度を落とした。がっくりと肩から力が抜け、冷蔵庫の扉を開いたまま床に突っ伏した。絶望の味って苦い。

「そんな……麦茶が、わたしの麦茶が……」
「……りこ?」
「いや、そんな事ない! どこか別のところに入れたんだ。そうに決まってる!」

 薄甘い期待に後押しされて、再び乃梨子は物色を開始する。その様、鬼気迫るものがあった。だが、希望に反して目当てのお宝どころか飲み物の類すら発見することはできなかった。

「……のりこ?」
「なぁに、しまこさん……」
「麦茶、切れちゃったわよ?」

 空のプラスチック容器を振りながら、志摩子は笑顔のまま仰る。それが奏でる音もどこか物悲しい。空空空空空空空……。他でもない愛しの姉に、残酷かつ酷薄に宣言されてしまった。希望の糸は断ち切られ、元いた奈落の底へと真ッ逆さま。乃梨子は、生きるキボ―を失ってしまった。

「……志摩子さん」
「なに、乃梨子?」
「私、わたし……死ぬ、かもしれない」
「そんな大袈裟な……」

 目の前で後光がさして、菩薩さまが微笑んでいた。お迎えだろうか、いや違う。志摩子の微笑みだ。いよいよ失命の未来が現実味を帯びてきた。暑さはこの際、後回しするとしてカラカラに乾いた喉こそ間近に迫った危機だ。飲むもの、飲めるものといえば牛乳とビールとダシつゆぐらい。付け加えるならば水道水もか。水分補給という観点からみれば、それらはそれらで問題はないだろう。しかし、後々まで口内に味の残る牛乳に、アルコール飲料なビール、しょっぱいだけの苦行とすら思えるダシつゆ、カルキ臭い水道水。どれもこれも御免だった。

「ぁっ、そうだわ。麦茶がなかったら、紅茶を飲めばいいじゃない?」

 マリー‐アントワネットがそこに居た。飲み物には違いない。違いないが……このくそ暑い盛りに熱い紅茶を飲めというのは、冗談にしても度が過ぎる。王族おねえさま民衆わたしのことなんかどうなっても構わないとでもいうの。今こそ、立ち上がるべきだ、立て国民のりこよ。仏蘭西革命ならぬ白薔薇革命、勃発かと思われた瞬間。革命は未然に防がれた。グラン・スールのたった一言によって。

「じゃぁ、お出かけしましょう」

 両掌を合わせ中指の先端を唇にくっつけて、志摩子は言う。それが、革命を阻止した何気ない動作と言葉だった。

「出かける?」
「そう、冷たい飲み物を買いに。少しくらいなら構わないと思うの」
「そっか、そうだよね」

 提案に、一も二もなく飛びついた。世の中、便利になったものだ。コンビニエンスストアという名の24時間営業店が出現して、幾年月。コンビニは庶民の生活に間違いなく浸透していた。もはや、コンビニなしの生活など考えられないほどに。乃梨子の住まう近所にもご多分に漏れず、とある会社系列のコンビニが進出している。
 力の入らぬ下半身を叱咤激励し、座卓の上に置いてあった財布を掴み取る。使い込まれた皮の感触が指先に宿る。実用一点張りのそっけない男物の財布が乃梨子愛用品だった。重さはそこそこ。ゆっくり振るとチャリンチャリンと硬貨のぶつかる音がした。資金も上々。行動しない理由はない。

「着替えなくちゃいけないよね」
「えぇ。ちょっと……その格好はどうかと思うわ」

 云われて、初めて気付いた。彼女の格好、それは扇情的といって差し支えない。吹き出した汗によって、若草色のタンクトップには濃淡が出来ており、うっすら下地が透けている。ともすれば、飾り気のないシンプルな下着のラインが浮かびあがるほどに。それに比べ、カットジーンズの方はまだマシかもしれない。露出した太腿を伝っていく雫が仄かな色気を醸し出している点以外は。
 どちらにせよ、人前に出るような格好ではないことは確かだ。

「あっちゃ〜、みっともないよね」
「私は嬉しいのだけれど……他の人にも見せるのは嫌ね」
「……わっ、たし、きがえ。そう! 着替えてくるから!」

 乃梨子は部屋を慌てて飛び出した。目にしたような気がしたから。肉食獣の輝きを発していた姉の瞳を。





 眩しい。頭上からくる輝きに負けて右手を額の前に置く。呆れるくらい、どこか懐かしい真夏の風景がそこに広がっていた。ポッカリ開いた青空には十字に光り瞬く恒星がある。それが彼女を苦しめていた元凶だ。上からは真夏の太陽が燦燦と。下からはアスファルトの照り返しによる熱風。憎いくらいの晴天である。オーブンレンジにでも入れられたような天候だった。
 だというのに、マンションの入口に立つ少女は晴れやかな表情をしていた。

「これぞ、夏だよね」

 そんな感想を口にする余裕すらあった。焼け付いたアスファルトをサンダル先で叩いて、馴染ませる。そこに先程までへばってだらけていた少女の姿は微塵もない。実にキャッシュな性格をしている。人間は適応能力の高い生物という言葉の実例たる存在かもしれない。
 スリムジーンズに無印のTシャツ、少女は佇まいを一新していた。どこか中性的な印象を与える彼女。素材の良さも合ってか、ともすれば少年のような服装もしっかり着こなしていた。肩の当たりでザックリと切られたダッチ‐ボブと相まって“夏少女”そのような言葉すら出てくる。

「お待たせ、乃梨子」
「志摩子さん」

 乃梨子は振り向いた。姉の姿を目にした途端、しばし見惚れた。ラフで中性的な格好が似合う乃梨子とは対照的に、志摩子の姿は可憐そのもの。涼しげで清楚な白のワンピースは、まるで彼女のために仕立てられた一点物のよう。乃梨子が“夏少女”ならば、志摩子は“夏のお嬢さま”といった辺りか。

「志摩子さん……あの、そのさ。似合ってる」

 そっぽを向いて語る。素直に誉めるのは照れくさかった。山百合会姉妹の例に漏れず、自分も姉馬鹿だという事実を知ってしまった。それが少し、くすぐったかったのだ。姉馬鹿の心境は家族の容姿を賞賛するのにも似ていた。端から見れば、初デートに望んだ少年が遅れてきた可憐な恋人のセンスを誉めるのと、そっくりだったとしても。

「ありがとう。乃梨子も可愛いわ」
「ありがと。さぁ。早く行こうよ」

 ふわりと微笑んで志摩子は返す。どうやらこの姉妹もまた。姉の方が実権を握っているっぽかった。





「うわぁ……涼しい、涼しいよ。志摩子さん!」
「乃梨子ったら、もう……子供みたいよ?」

 自動ドアを開いた瞬間、乃梨子は歓声を上げた。忘れかけていた感覚が一気に蘇ったのだから無理もあるまい。暑いという感覚に慣れすぎて、涼しいという快感を彼女は忘れていた。まったくもって不憫である。彼女へと注がれるアルバイト店員の視線も、同情と不躾を微妙な配合でブレンドされていた。その生暖かくも冷たい視線が羞恥心と常識を呼び起こさせる。

「……コホン。失礼しました」

 小さく窄まるような形で謝罪を口にした。最後の辺りは良く聞き取れはしなかったものの、その真っ赤に染まった頬を見れば何を喋ったか位、想像がつく。それがナチュラルな魅力たっぷりの少女なら尚更。男性の店員は、商売用の微笑みを普段の二割増と1オクターブ高い声で出迎えた。オトコという生物は存外、簡単にできている。

「乃梨子。ハイ、これ」
「ありがとう」

 やり取りもなんのその。志摩子は気兼ねなく行動していた。品物を大量に入れるための篭を手にして、準備万端である。天然は強し、といった感じか。

「まずはお茶ね。1000ml一本で充分かしら?」
「うーん。でも、あの部屋熱いし……二本、買っておこうよ」

 紙パックの麦茶を二本、篭の中へ放り込む。ズシッとした重さが右手に掛かった。普段なら重さに根を上げただろう。今はその重さこそ非常に頼もしく思えた。現金なものである。
 少女たちの買い物は続く。えてして女性はショッピング好きの一面をもつ。コンビニであれブテックであれ、興味をひく品があればそれで充分。更にその上、気が置けない友人も一緒だと楽しさも倍増する。



 店内の半分も見回ったころ、志摩子の頬が小さく緩んだ。彼女と繋がりの薄い人間であるならば、見落としてしまいそうな微細な表情の変化。乃梨子は当然のごとく気付いた。 繊細すぎるほどデリケートで、ちょっとした事でも傷つきやすい姉。そんな厄介な人のプティ・スールになったのだから。気分の変化の一つや二つ気にかけてるのが、乃梨子にとって自然な行為だった。

「どうしたの? なんだか、志摩子さん楽しそう」
「……乃梨子にはわかっちゃうのね。ちょっと空想してしまって」
「おもしろい、こと……?」

 今までの傾向から分析する。志摩子は口数が多いほうではない。無口というほど酷くないが、微笑みでかわすことが多かった。最近は改善されつつあるものの、それでも笑顔で逃げることもままある。永年付き合ってきた負い目から抜け出せにくくなっているのだ。
 その微笑みとは違うように、直感した。最近、ふとした瞬間に出てくるようになった心からの微笑み。山百合会を通して、もしかしたら乃梨子を通じて、志摩子は良い方へ成長している。
 例えば、祐巳と由乃のじゃれあいの瞬間。例えば、紅薔薇姉妹が深まった絆を見せる瞬間。例えば、黄薔薇姉妹が肩を寄せ合って部活動へ向かう時。そして、乃梨子をみつめる時。それらの場合のみに見せる柔らかな微笑みのように思えた。

「私たちって新婚さんみたいだなって思えたから」
「……」

 志摩子の面が近付いてくる。全身の筋肉が緊張しきりだ。女子高特有の過剰なスキンシップには、いつまでたっても身構えてしまう。

「乃梨子も、そう思ってくれてると嬉しいわ」

 見目良い耳朶に唇寄せて、囁いた。乃梨子の頬が目に見えて赤く染まる。言えるわけがない。乃梨子も同じような事を考えていたなんて。新婚姉妹スールなんて言葉が脳裏に浮かんでいたとは。照れくさすぎて、口にできるわけがない。



キャイキャイ喋りつつ、品を選んでいく二人。どんなアイスが好きだとか、好きなお菓子は何某だとか。そんな他愛のないことを歓談していた。同年代の女性と比べると二人はいささか離れた場所に位置するが、ショッピングを好むのは普通の少女となんら変わりなかった。

「少し買い過ぎちゃったかしら?」
「半分コだね」

 帰りの道行き、少々苦労する羽目に陥いると予測できても。二人は仲良く微笑みを交わした。





 紅く染まった空が徐々に闇に浸されていく。どんな筆であろうとも出せない極上のグラデーション。カメラの心得があれば、きっとシャッターを押さずにはいられない。そう考えさせるほど、美しくも寂しい光景だった。
 頬を撫でてゆく真夏の風もどこかやさしい。乃梨子は一人ベランダから顔を出して、変わりゆく風景を臨んでいた。その表情はどこまでも真摯だ。若さゆえの情熱と感性をもって、あるがままをあるがままに捉えてようとしている。

 一秒毎に変わっていく景色を瞳に閉じ込めるよう、今日の思い出を刻み込むように。彼女はただ、落ちていく日の光を見つめ続けていた。少女の双眸は沈み切る最後まで視線をはずすことをしなかった。

「暗くなっちゃった、か」

 どの場所にも等しく一時の眠りを与えられる。それはこの星でたった一つゆるぎない法則だ。世界に安らぎの闇が降りていた。生命の迸りを強く感じた後の時間は、どうしてこうも物悲しいのだろうか。騒々しいほど賑やかだった真昼に比べると雲泥の差がある。少女のまなこが、少しだけ潤む。感傷が胸に染み込んでいた。
 ふと、空気の流れが変化する。駆け抜けていった風が背後で留まっていた。少女は漠然とした予感で察する。

「あーぁ、今日もおわっちゃったね……色々あったけどさ。私、楽しかったよ」
「違うわ、乃梨子」
「違うって?」

 万感の想いを込めて、胸の内を伝える。

「ほんの少しかもしれないけれど、今日は残っているわ」
「そっか……そうだよね」

 はにかんだ乃梨子をみて、志摩子もまた嬉しそうに笑う。二人の思いはリンクしていた。

「それに……」
「それに?」
「今日はまだ、これからだもの」


 言葉の裏に気付かないまま、乃梨子は満面の笑みとともに頷いていた。
 彼女は後に語る。志摩子さん、絡め手も上手いんだもん。そんなの気付っきこないよ、と。



 今代の白薔薇に愛されたツボミに、幸あれ。









 FIN

(040919)
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