薄暗い土蔵の中でも、太陽は等しく昇る。衛宮士郎を起こしたのは、肌寒さと頬にあたる朝日のやさしい暖かさだった。半開きの瞳が、意味もなく鉄扉に視線を注いでいた。今日は少しばかり、意識が起動するのに時間がかかっているようだ。瞳の焦点が徐々に状況を捉えていく。脳が覚醒し終えて、記憶の繋がりが明確になった。

「……また、ここで眠っちまったのか」

 口調には、微量の自嘲成分が含まれていた。



ABOY




 いつもの逢瀬を終え、愛しい人の寝顔を確認してからのことである。彼の独断場、パーソナルスペースたる土蔵へと、足を踏み入れたのをしっかと記憶していた。その目的は、役にたつかも判らぬガラクタたちに、もう一度、日の目を当てさせてやるためである。そんな廃品一歩手前の品々に囲まれたまま、眠ってしまったらしい。ツナギに包まれた肉体の節々が、酷使に対して抗議の声を上げていた。

「桜、心配してるかもな」

 少し過保護すぎるきらいがある恋人の事だ。あながち、的外れでもない推論だろう。彼女の哀しそうな顔を浮かべるだけで、胸が締め付けられる。心配をかけっぱなしという後ろめたさも、多分に含まれていた。
 目が覚めたとき、隣にあった温もりが見当たらないというのは、さびしいものだ。温もりに飢えていた彼女は、今もどこか寂しがりやの気があった。普通の感覚でそうなのだから、彼女の悲哀を考えると自責の念に駆られる。心深く反省する。……その行為は、同時に昨夜の記憶をも蘇えらせてしまった。

 逢瀬を思いだすと顔面が赤く染まり、一部が元気になってしまう。ただでさえ、年下の恋人の姿を思い浮かべるだけで、上下に血が集中してしまう。その上、昨晩のリアルな痴態を思い浮かべてしまえば、もう……。士郎は、自分の若さと対面してしまう。若さが迸る、元気が良すぎるのも困りものだ。

 煩悩を振り払うために、両掌を組んで真上へ伸ばす。ガチガチにこっていた背筋が解れていく。太い血管の中を血流が勢い良く下っていく音を、肉体自身が聞いた。久しい感覚だった。労働後の心地よい疲労感が肉体に蓄積されているというのは。
 都合、三度ほど彼女の胎内に魔力を補充し、その後、夜明け寸前まで機械を弄っていたのだから無理もあるまい。正負の方向性の違いはあるにせよ。泥のような疲労感は昨年の騒動以来かもしれない。





 一年前、戦争が起こった。鮮烈にして静謐。静寂にして狂騒。外法を使いながらも正道。個人の戦闘にして、その凄まじさもはや戦争の域。聖杯戦争。そう銘打たれた戦いは、大小様様なアクシデントを内包しつつ、終幕した。

 ベストとは言い辛くも、それなりにハッピーなまま幕が降りた瞬間から。彼の内にて、己を急き立てていた衝動は消えうせた。ひいては、魔術を鍛錬する動機はなくなった。否、消失したというのは若干、事実と異なる。魔術は、彼が求めていた理想への手段でしかなかった。その理想が端から抱えていた矛盾。その綻びが大きくなりすぎて崩壊しただけの話。それに連動して、彼を突き動かしていた呪いじみた誓いもまた、力を失った。





 外気は土蔵と違い篭った感じもなく、健やかに彼を出迎えてくれた。大気に染みこんだ水分が肺に取り込まれ、穏やかな朝を演出していた。夜明けに少しだけ雨が降ったのか、濃い翠に朝露が降りている。そのくせ、空はお月様が見えるほど高くて。一日の始まりとしては、上々な雰囲気ではなかろうか。

 彼の朝は、すこぶる早い。学校が始まる前なのは当然の事、始業時間の二、三時間前には起床している。長年の習慣に基づくものだが、れっきとした理由付けがある。彼には、衛宮家の人々の食生活をまもるという崇高な使命があるのだ。……若干、虚言が入った。彼自身の平穏な生活を守るために、朝食という動作を抜かしてはならない。すっぽかせば、下手をしなくても彼自身の命にかかわる。これは戯言ではない。飢えた野獣に餌を与えなければ何をしでかすか判ったもの……確実に暴れるだろうし。その上、彼の恋人は健啖であり、居候の美女も変哲のない素振りを見せつつも意外に食にうるさい。


 理解るだろうか、彼の立場が。現在の衛宮家は、ただでさえ女系の一途を辿っていて。黒一点な彼自身の権力など皆無に等しい。調理場を制するものは家庭を制するという言葉があるが、衛宮家では当てはまらない。とにもかくにも、直接手段に訴える人間がいるし、自分で調理できる人間は居るし、食べなくても困らないヒトは居るし。
 貧乏人は、虐げられる事を甘んじて受け入れるしかないのだ。手近にあった若葉に怒りをぶつける。



 資本主義じゃなかった、弱肉強食世界の馬鹿ヤローーー。



 世の儚さに叫んでは見るものの。彼――士郎は家事という行いが本質的に嫌いではない。というか、ルーツが剣じゃなかったら家事とかになっていただろうって位に、合っている。
 お日様に洗い立てのシーツを干す時、皺を伸ばす瞬間。塵や髪の毛を掃除機で一々、吸い取っていく瞬間。献立を決めようとMYバッグ片手に激安商店街への道程を歩く瞬間。愛用のツナギのほつれを直してる時。会心の一品を作れたとき。
 例えようのないほど、生の実感を得ている。


「……結局、好きなんだろうな」

 枷が消えてから、富にそう思う。自身を縛っていた誓いから抜け出したのは、そう遠い日々の事ではない。昨年の事。そう、たったの一年しか経過していないのだ。諸所の事情で眠りつづけていた彼自身の感覚では、つい先月の事として思い出せる。
 いろんなことがあった。自分の住んでいた街で行われていた馬鹿げた儀式について知り、養父の詳細について知り、戦いを決意し……本当に、様々な出来事が短期間の内に彼の元を通り過ぎていった。その中には、痛みを伴って蘇る記憶も多々、存在する。


 戦争の傷跡は、生き残った関係諸氏に残されていた。桜は、その身に罰と後悔を。士郎は、己の理想と相棒となりうる少女を。凛は、兄弟子と妹への懺悔を。ライダーには決断させた悔恨が。各々が其々を失い、そして残された。
 それらの傷跡が癒えることはないだろう。否、癒す事を各々が望んでいない。道具ではなく自分の望みをもって人間として生きたいと思った崇高な決意が。たった一人を護りたいと願った欠片のような人間らしさが。十数年来、ともに歩んできた魔術師としての誇りが。望むべく得たかけがえのない主のために。彼らは戻れない。


 零れた水は汲みなおせない。入れ直したところで、その水は以前のモノとは違ってしまっているから。人も、そうだ。失ってしまったものは二度と手に入らない。“正義の味方”という霞の如き理想を持っていた衛宮士郎は、帰らない。たった一人の少女を助けると決めた、その瞬間から。

 それでも。あの通り過ぎた日々が、懐かしく思える時がある。あの時間には、いけ好かない野郎がいた。そりの合わない男がいた。自分の心臓を奪った野卑な青年がいた。親友だと思っていた少年がいた。雪の少女とそれを守る鋼の巨人がいた。何より、リンと立つ小柄な少女がいた。
 それらの記憶は、切り口鋭いガラスの破片のようで。思い返すだけで、ジクリと胸の片隅で傷が浮かび上がる。それでも。


「……後悔はしない」

 頭を振って、唐突に浮かんだ迷いを打ち消す。正義の味方を目指していた衛宮士郎は、死んだ。あの煉獄の中で欠けてしまった心は、柔らかなやさしさと暖かいぬくもりに触れて、蘇ろうとしている。今、ここにいるのは普通の生き方を、恋人と共に生きる人生を、模索しつづけている男のみ。
 自己が不安定なまま、突き進む事はできない。そんな曖昧で危なっかしい生き方を選択すれば、傍らで寄り添う恋人が悲しむ。彼女が笑えるように、彼自身も幸せであるように。踏みにじり打ち捨てたモノに対して、殊勝な気持ちで居よう。





 縁側に足を踏み込んだところで、知己と出会った。丁度、細長い樹木の影の下。チョコンと可愛らしく鎮座ました白黒マーブル模様の毛玉。そこが指定席と言わんばかりに丸くなっているのは、ネコ目ネコ科の哺乳類。

「早いな、チビ」

 小さく答えるように鳴く子猫。ブチ模様で、右耳端に傷跡があるのが特徴の雄猫さんだ。彼、衛宮の飼い猫などではない。それなりの野良暦を重ねる由緒正しい野生のケダモノ。水が合ったのか、よく衛宮邸に顔を出すようになった。

「ちょっと待ってくれな? 今、皆のを用意してから、お前の分に取りかかるから」

 ナーと了承の鳴声。中々に頭のよろしい猫だ。


 何気にチビと呼ばれた雄猫、衛宮家の人々に厚くもてなされていた。呼び名は、ここの面々で違っているが、文字通り猫かわいがりしていたりする。彼が愛くるしい容姿なのも要因であろうが、基本的に動物好きな面々が揃っているからだ。偶に来訪する庶民的アイドル、といった感じか。
 猫に限らず、衛宮邸には多くの動物が寄ってくる。それはもう、動物園も真っ青になりそうな頻度で。虎をはじめ、猫、犬、野鳥。冬木に住む動物の多くが、縄張り元締めの飼い虎に挨拶に来ているかもしれない。無論、冗談だが。


 実際のところ、ライダーの性質と、おそらく一番の原因は彼の家に張られた結界の影響ではないかと推測される。衛宮邸の結界は、およそ魔術師らしくない。研究に研鑚を重ね、己が生み出した魔術の秘儀を隠匿するのが、魔術師。なれば自然、自分の城たる工房には、それ相応のシステムを組み込むものだ。奪われたいとは露ほど思わず、広められるのも嫌、と考えるのが人間なら道理。
 現に、冬木の地の管理人。その巣である遠坂邸には、猫の子すら侵入すること罷りならぬ。その反対方向に位置するのが、衛宮邸の結界。“閉鎖”ではなく“開放”とでも言うべきか。入りやすく抜けやすい。昔からの和風建築には、必ず創られた風の通り道。それに似たものが、その結界にはある。
 その影響を一番受けているのが、魔術師と獣たちだろう。前者にとって、衛宮の結界は無用心でありつつも一息つける空間で。後者にとっては、付近の獣たち共有テリトリー、一種の聖域と認識されていた。
 獣たちは、何より匂いに敏感だ。風の匂い、潮の香り、木々の鼓動……。それら、自らを遍く森羅万象を、己の感覚で感じ取る。それは、魔術の気配も同様だ。魔の気配が濃い空間には、決して近寄らず。近くに魔が存在すれば、息を潜め、じっと耐え忍ぶ。本能が警告しているのかもしれない。魔の気配は危険であり、決して自らの力では購えぬと。

 つまり、本質的に獣達は魔術の匂いを好かない。神性にまで高められたのであるならば、話は別だろうが。それ故、衛宮の結界は特別なのだ。人でありながら、魔術師でありながら、魔術師らしからぬ結界を張る。なんともはや、結界を張った故人、それを受け継いだ子息の人柄を忍ばせるではないか。





「士郎?」
「あ、あぁ。ライダーか」

 眼鏡をかけた女性に呼びかけられた。腰先まである長髪に、ジーンズに包まれていても判るスラリと長い脚線美。彼女、一見、麗姿な女性。その実態は、英霊“メドゥーサ”の真名を持っているパワフルガールだ。

「どうかしましたか。ボーッとしていたようですが?」
「ん、ちょっとね。朝食何にしようかなーとか、色々考えてた」
「……そうですね。サクラもタイガも、あれで食い意地がはっていますし」

 マスターを虚仮にしつつも、艶やかに笑う。そこに負の感情は欠片もない。信頼のなせる技だ。桜とライダー。2人の関係は主従として、少々特殊だろう。まるで、年の差のある親友のようにも、姉妹のようにも振舞っていることがある。終いには、実の姉である凛がジト目で仲を羨むほどに。

「そ。下手なもの、作ったら実力行使するしなぁ」
「サクラは……その日中、ずっと不機嫌ですし?」
「そうそう」

 にかっと笑いあった。

「……」
「どうした?」
「……いえ」
「そっか」

 不意に黙り込んだ女性を目にして、疑念の言葉を投げかける。返ってきたのは、毒にも薬にもならない答えのみ。元より、口数が多いとも言えない彼女の事だ。言うべき言葉があるならば、歯に衣着せず表現するだろう。そう判断して、士郎は縁側へ足をかけた。

「士郎」
「ん?」

 呼びかけられ、振り返る。

「気負わないでください。少なくとも、貴方はサクラに必要な人間です」

 言葉を投げかけて、彼女は歩み去った。

「……ばれてるか」

 唇がわずかに動く。自嘲の形に歪んだ。人生経験の差だろうか。彼女は、時として誰よりもやさしい大人の目をしている。その暖かさは、今まで感じたことのない類のもので。ひどく魅力的でもあって。今まで感じたことのない年上の女性の魅力を強く意識してしまう。ちなみに。藤ねぇは除外して良いだろう、多分。






 この先の未来が平穏である事など幻想でしかない。恋人のパートナーであった女性は、エーテル体で構成された唯一無比の使い魔“サーヴァント”であり、彼の恋人は擬似聖杯ともいうべき魔力をその身に宿している。そして、彼自身の肉体もまた封印指定の魔術師の手によるヒトカタ。彼自身の魂は、投影魔術の境界をあやふやにするほど強力な担い手。
 これだけの要因が揃っているのだ。一角の魔術師ならば、リスクを鑑みても、手を出すだけの魅力はある。今は、この地のオーナー遠坂凛が情報を誤魔化してくれているだろう。だが、それが永遠に続くとは思えない。この手の人種は、野犬同様、鼻が利く。ひょんな所から、きっと、ばれてしまう。今まだ見えぬ略奪者への焦りが、彼の表情を引き締めた。



 渡る風に枝葉がざわめき、彼の頬をそっとくすぐって消えた。焦りがストンと落ち着いていく。目に見えて、彼の全身から緊張が抜けていった。

「……とりあえず、だ。風呂に入ろう」

 今はまだ、穏やかに流れていく日常に留まり続けているだけ。それだけで良いだろう。そう遠くない未来、戦わなければならない時が来る。刃金の剣を鍛えるのは、日常を護るために。
 その身が“剣”だとしても、安らぎを求めてならぬ道理なし。そのために、鞘がある。そのための鞘が、傍にいる。焦る必要など、何処にも存在しない。ようやく手に入れた平穏な猶予期間。楽しまなければ損と言うものだ。





 差し当たり。浴槽にて彼には、お子様お断りな展開が待っているのだが、それもまた幸せな日常の一コマということで。










 FIN


(040911)
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